賀抜允賀抜 允(がばつ いん、487年 - 534年)は、中国の北魏末の軍人。字は阿鞠泥[1]。本貫は神武郡尖山県[2][3][4](現在の山西省忻州市神池県)。 経歴武川軍主の賀抜度抜の子として生まれた。正光5年(524年)、弟の賀抜岳らとともに衛可孤を殺害した後、広陽王元淵の下で積射将軍となり、滏口を守った。元淵の敗北後、爾朱栄に帰順した。建義元年(528年)、征東将軍・光禄大夫の位を受け、寿陽県侯に封じられた。永安年間、征北将軍・蔚州刺史となり、爵位を公に進めた。建明元年(530年)、長広王元曄が即位すると、賀抜允は燕郡公に改封され、侍中を兼ねた。普泰元年(531年)、柔然への使者に立った。晋陽に帰還すると、高歓が反爾朱氏の起兵を進めようとしていたので、賀抜允は高歓のために起兵の計画策定に参与した。中興元年(同年)、安定王元朗が即位すると、賀抜允は司徒に転じ、尚書令を領した[5][3][4]。太昌元年(532年)9月、爵位を燕郡王に進めた[6][7]。永熙2年(533年)7月、太尉に転じた[8][9]。侍中を加えられた[10][11][4]。 永熙3年(534年)、北魏の孝武帝は高歓の専横を憎んで、賀抜允の弟の賀抜岳とひそかに結託した。賀抜岳の死後、孝武帝は賀抜允の別の弟の賀抜勝と通じた。このため賀抜允は乱を起こすのではないかと疑われたが、高歓は賀抜允との旧交を重んじて、賀抜允を擁護した。しかし、東魏が建てられて天平元年と改まると、賀抜允は高歓とともに猟に出て、高歓に弓を向けたと告発された[10][12][13]。12月丁卯[14][15]、死を賜った。定州刺史・都督五州諸軍事の位を追贈された[10][12][13]。 子に賀抜世文・賀抜世楽・賀抜難陀の三子があった[10][12][13]。 脚注
伝記資料参考文献
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