道顕(どうけん、生没年不詳)は、飛鳥時代の僧侶。高句麗からの渡来人。
経歴
倭国へやってきた年代・事情や経緯などは分かっていない。
『日本書紀』巻第二十七によると、天智天皇元年(662年)4月に、鼠が馬の尾の上で出産するという事件が起きた。道顕はこれを占い、
「北国(きたのくに)の人、南国(みなみのくに)に附かむとす。蓋(けだ)し高麗敗れて、日本に属(つ)かむか」
と言ったという[1]。これは子(ね=北)が午(うま=南)に属したという意味で、高麗(こま=高句麗)が滅亡して日本を頼るという解釈であるらしい。
その前年、斉明天皇7年12月にも、以下のようなことを述べている。
春秋の志
(こころ)と言ふは、正
(まさ)に高麗に起
(おこ)れり。而
(しかう)して先づ百済に声
(きか)しめむとす。百済、近
(このごろ)侵
(をか)さるること甚しくして苦急
(くるし)ぶ。故
(かれ)、爾
(しか)いふといふ
(
金春秋の本意は高麗を討つことにあったが、まず
百済を討った。それは近年
新羅が百済を侵掠されることが多く、苦しんでいたからそうなったのだ)訳:宇治谷孟
[2]
『書紀』の史料の一つに、彼の著したとされる『日本世記』があり、斉明天皇6年7月条・同7年4月条・同11月条、天智天皇8年10月条に引用されており、上記の史料や、『藤氏家伝』の本文にも逸文が用いられていると言われている。その記述には讖緯説の影響が見られ、当時の日本の対外関係などを詳述しており、百済の滅亡の事情や藤原鎌足の薨去の様子なども記されている。
脚注
- ^ 『日本書紀』天智天皇元年4月条
- ^ 『日本書紀』天智天皇即位前紀12月条
参考文献
関連項目