酒井忠義 (小浜藩主)
酒井 忠義(さかい ただあき)は、江戸時代後期の大名、明治時代初期の華族。 小浜酒井家13代、15代目の当主で、若狭小浜藩の第12代、第14代藩主、初代知藩事。 生涯第10代藩主酒井忠進の五男。幕末期の幕政に参与し、天保14年(1843年)から嘉永3年(1850年)の間と安政5年(1858年)から文久2年(1862年)の間、京都所司代を務めた。安政5年(1858年)に将軍継嗣問題が起こると、南紀派を支持して一橋派を弾圧した。これが後の井伊直弼による安政の大獄の一因をなしたと言われている。ただし忠義は、自身の元の家臣であった梅田雲浜の捕縛には消極的であったが、長野主膳からの強い脅しに屈する形で志士弾圧に踏み切ることになった。忠義が入京した9月2日以降、まず捕縛したのは浪人・儒者らであり、諸藩の藩士・公家らへの本格的な弾圧が始まるのは、老中間部詮勝が入京した9月16日以降である。また、和宮降嫁など公武合体にも尽力した。尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋騒動では標的にされている。 文久2年(1862年)に諱を忠禄(ただとし)と改めるが、在職中の失政を問われて所司代を罷免され、娘婿の忠氏に家督を譲り隠居謹慎に追い込まれた。1868年(明治元年)、忠氏が鳥羽・伏見の戦いに参戦して山陰道鎮撫軍に降伏すると、名代として上京・謝罪をするとともに、藩兵を新政府軍に派遣している。同年、佐幕的行動をとったとして謹慎処分を受けた忠氏の隠居を受け、藩主に返り咲いている。明治2年に版籍奉還で知藩事に転じ、華族に列する。1870年(明治3年)9月に分家筋である鞠山藩(敦賀藩)を合併した際に藩知事の地位を鞠山藩の酒井忠経に譲る。 1873年(明治6年)、61歳で死去した。 年譜※ 1873年(明治5年)までの日付は旧暦。
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