長谷川芳之助長谷川 芳之助(はせがわ よしのすけ、1856年1月22日(安政2年12月15日[1][2][3][4])- 1912年(大正元年)8月12日[3][5][6])は、明治期の鉱山学者、実業家、政治家。衆議院議員、工学博士。 日本で初めて工学博士となった5人のうちの1人。他に古市公威、松本荘一郎、志田林三郎、原口要がいる。 経歴肥前国松浦郡唐津城下[2](佐賀県東松浦郡唐津町[7]を経て現唐津市[6])で、唐津藩士・長谷川久徴の長男として生まれた[2][4][6]。長谷川家は代々同藩数学師範を務め[4]、父は剣術にも優れていた[2]。8歳で藩校に入り漢学を修めた[2]。また父から数学を[4]、佐藤与造から蘭学を学ぶ[4]。父の大坂在勤に従い[2]、1868年(明治元年)長崎通詞何礼之から英学を学び[2][4][8]、大阪開成所(のち大阪英語学校)で英語を教えた[2][5][8]。1872年(明治5年)唐津藩貢進生として大学南校に入学し[2][6][7][8]、開成学校に改組され化学を学んだ[2][3][5][8]。1875年(明治8年)7月、文部省留学生に選ばれ米国留学を命ぜられ、南部球吾とともにコロンビア大学で採鉱冶金学を学んだ[2][3][4][5][6][7][8][9]。学位を受け[8]、日本への帰途、ドイツのフライブルク大学で製鉄業を修めて[3][6]、1880年(明治13年)8月に帰国した[2][6]。 三菱会社に入社し[2][3][5][6][7][8]、高島炭鉱に配属された[9]。その後、吉岡鉱山長、本社副支配人兼尾去沢鉱山長などを務め[3]、鉱山・炭鉱の開発、採掘、経営に参画した[2][5][7][8]。1896年(明治29年)に退社して帰郷し[6]、肥前牟田部炭鉱、筑前藤棚炭鉱、赤堀炭鉱の経営を行った[5]。また、日本の製鉄業創始を主張し、製鉄事業調査委員、製鉄所創立委員、製鉄所事業調査委員を務め、製鐵所(官営八幡製鐵所)の創設に貢献した[3][4][5][6][7][8]。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(鳥取県郡部、無所属)で当選し[4][8][10]、衆議院議員に1期在任した[5][7]。なお、鳥取県からの出馬の経緯は不明である[8]。国家主義を唱え、日露戦争前には対露同志会などに加わり、対外硬を主張した[6][8]。 親族脚注
参考文献
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