長門城
長門城(ながとじょう/ながとのき)は、長門国にあった日本の古代山城。城跡の所在地は不明。 白村江の戦いでの敗北を契機に築かれた城で、『日本書紀』には天智天皇4年(665年)と天智天皇9年(670年)に長門国に城を築いたとする記録があるが、城名や所在場所に関する情報がないため、地元史家の間で諸説がある。 城跡の所在茶臼山説文政年間(1818 - 1829年)に中村徳美が「長門国志」で茶臼山(下関市前田、標高96.0m)から多賀城や大宰府で出土したものと同じような古瓦が出土したことを根拠に主張した。 大唐櫃山・小唐櫃山及び狩音山説明治時代に近藤清石が、長門城が韓国人によって築かれたものであり、それを契機に韓人山(からうとやま)と名付けられたものが転訛して大唐櫃山(おおかろうとやま)・小唐櫃山(こかろうとやま)(下関市豊浦村、標高141.1m)になったと主張した。更に下関市豊浦町黒井の鬼ヶ城山に連なる山に狩音山(かりおとやま)(下関市内日上(うついかみ)・豊浦町黒井、標高577m)があるが、こちらも「からうと」からの転訛が考えられることからもう一つの城は狩音山にあるとしている。 火の山説御薗生翁甫が茶臼山は響灘を俯瞰できないこと、大唐櫃山・小唐櫃山は長門国府の設置された下関市長府地区の背後にあるため防備上不合理なことから両説を否定し、長府の南方に聳え、瀬戸内海・響灘・九州を俯瞰できる火の山(下関市椋野、標高268.2m)にあると主張した。火の山は狼煙山としても使われており、戦国時代には大内氏や毛利氏の家臣が拠ったという記録もあるため、城山としての条件を備えていたことを根拠としている。 その他の説
長門城の跡と推測されている山のうち以下に挙げる山は開発が進められたため遺跡の存在が確認しづらくなっていることから、どの山に2つの古代山城があったのか現状では判定しかねる状況がある。 疑問点
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