間島氏勝
間島 氏勝(まじま うじかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。通称は彦太郎。官位は兵衛尉(『太閤記』では右兵衛尉)[2]、因幡守[3]。播磨国福中城主、のち淡路国岩屋城主。姓は間嶋、または真島とも[4]。 出自間島氏は赤松氏の傍流で、宇野則景の子・景能を祖とする。嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏とともに没落するが、康正2年(1456年)、南朝より神璽を奪還し(禁闕の変)、お家再興を果たした。その後、赤松氏のもとで加賀国守護代を務めたが、応仁の乱後に本貫地である播磨国明石郡平野荘に戻った[5]。 略歴播磨国大山館主・間島氏常の子として生まれる[6]。天正8年(1580年)頃、播磨に侵攻した羽柴秀吉に臣従した[4][注 1]。後に別所長治が織田信長から離反した際、父の氏常は長治に与して三木城に入城したが、氏勝は秀吉方に属したという[3]。『三木戦史』によれば、秀吉軍が三木城を包囲した際、鹿島彦太郎(氏勝)は福原長堯とともに明石街道に布陣している[8]。 その後、正確な時期は不明だが、秀吉の命によって福中城を破却された[2]。 天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いの後の論功行賞で淡路国岩屋城主に任ぜられた[4]。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍し、天正14年(1586年)には方広寺大仏殿(京の大仏)の作事奉行を務める[4]。その後、九州平定や小田原征伐にも従軍し[4]、文禄元年(1592年)の文禄の役では秀吉の後備衆の1人として200人を率いて肥前国名護屋城に駐屯[9][10]、この当時1万石を領していたという[6][注 2]。 その後の氏勝の動向については諸説あり、文禄の役から慶長3年(1598年)の間に死去したとも[9]、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座したともいう[5]。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加担したため没落するが、その後、同族のよしみをもって黒田如水に寄食したという[4][注 3]。 逸話
注釈
脚注
参考文献
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