閲微草堂筆記『閲微草堂筆記』(えつびそうどうひっき)は、中国・清の紀昀[1]が著した文言小説集[2]である。 概要蒲松齢『聊斎志異』の流行により、六朝時代の志怪小説復興は模倣者を生み活況を取り戻し始めたが、およそ80年経てこの動きに拍車をかけたのが袁枚(『子不語』の編著者)と紀昀である。「四庫全書」の総纂官であった紀昀は、『聊斎志異』を著書と認めず「才子の筆」であるとし[3]、蒲松齢の才能を認めながらも作者の恣意による架構の世界を展開する戯作として低級なものと主張し、蒲松齢に批判的な姿勢を鮮明にした[4]。 紀昀は、清の乾隆五十四年(1789年)から嘉慶三年(1798年)にかけて、『閲微草堂筆記』を執筆したが、『灤陽消夏録(らんようしょうかろく)』の自序によれば、乾隆54年(1789年)の夏、『四庫全書』事業の作業が終わっており長い昼、かつて見聞した珍しい話を思い出すままに書き綴ったものが『灤陽消夏録』となった。紀昀は字が下手だったので抄胥[5]に清書させて保存するよう命じた。ところが抄胥は清書を2部作り、1部を書店に売って私腹を肥やした。これによって紀暁嵐 著『灤陽消夏録』六巻が刊行され(1789年、紀昀66歳)好評を博したらしい。気を良くした紀昀は以後も執筆を続け、『如是我聞(にゅぜがもん)』四巻(1791年)、『槐西雑志(かいせいざっし)』四巻(1792年)、『姑妄聴之(こもうちょうし)』四巻(1793年)、『灤陽続録(らんようぞくろく)』六巻(1798年、紀昀75歳)の順に単行刊行した。 清の嘉慶五年(1800年)に紀昀門人の盛時彦(せいじげん、字は松雲,順天大興(北京)の人)が合巻し、紀昀が校閲、『閲微草堂筆記』と命名し[6]刊行(原刻本、全5種 24巻 1,200余篇)した。[7] 日本語訳
注・出典
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