雷部屋沿革雷の年寄名跡は江戸時代から続いており、当時の相撲会所の取締役にあたる地位を保つ、重要な年寄が襲名していた。明治になって、相撲復興に力を尽くした第15代横綱・初代梅ヶ谷が襲名し、弟子に第20代横綱・2代目梅ヶ谷をはじめ、小兵で知られた関脇・玉椿など多くの力士を育て、「梅・常陸時代」の相撲界に大きな貢献をした。2代目梅ヶ谷が引退すると、年寄名跡と部屋を譲って隠居し、「大雷」と呼ばれた。 しかし、2代目梅ヶ谷は、部屋経営の才能では常陸山には劣っていたようで、弟子たちも次々に引退、1927年(昭和2年)の東西合同の際には、関取は幕内に雷ノ峰ただ一人という状況になっていた。そして、雷親方も同年9月に亡くなり、部屋を継承するものがいなかったので、弟子は玉椿の白玉親方に引き取られ雷部屋の看板は消えてしまった。その白玉部屋も、翌年に親方が亡くなり消滅、弟子たちは八角部屋に引き取られた。幕内雷ノ峰は、立浪部屋に移籍し、春秋園事件のときに協会を脱退、ついに復帰しなかった。 雷一門には、ほかにも中川部屋、武蔵川部屋などがあったが、これらも昭和初期に次々と閉鎖、一門の元幕下金木山の率いる鏡山部屋に力士たちは引き取られていった。雷直系の弟子で最後まで残ったのは、1934年(昭和9年)1月場所に入幕を果たした番神山であった。 戦後になると、最後の弟子で当時雷を襲名していた番神山が1957年(昭和32年)に部屋を再興したが、関取を出せないまま1961年(昭和36年)に部屋を閉鎖、自らは立浪部屋所属の年寄として、停年まで協会に所属した。番神山の停年後に雷の名跡を継承した羽黒岩(14代雷)、春日富士(16代雷)は、いずれも立浪一門(現・伊勢ヶ濱一門)所属の部屋付きとして活動したが、春日富士が日本相撲協会を退職した後、年寄名跡は春日山・伊勢ヶ濱連合(当時、現・伊勢ヶ濱一門)から出羽海一門に流出した。その後、17代雷(元小結・垣添)が、出羽海一門内の入間川部屋を継承することで名称は復活したが、上述のように、かつての雷部屋とは別系統である。 →「雷部屋 (1993-)」を参照
雷一門初代梅ヶ谷が襲名して以降の雷部屋からは、明治中期~大正時代にかけて多くの力士が誕生し、それらの力士が引退後独立し部屋を興し、「雷一門」と呼ばれる一門を形成していった。しかし大正後期になると本家の雷部屋は衰退した。昭和2年に雷部屋が閉鎖すると、残っていた部屋も相次いで閉鎖し、所属力士たちは鏡山部屋に引き取られていった。その後1945年(昭和20年)に鏡山親方が亡くなり鏡山部屋が閉鎖し、一門は完全に消滅した(前述の番神山が再興した雷部屋は、立浪一門に所属していた)。 一門に属した主な部屋は、以下の部屋である(これらの中には現在も同名の部屋があるが、それとは無関係である。)
このほかにも高嶋部屋を興した谷ノ音も雷部屋の所属だった。 脚注参考文献
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