高屋山上陵高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ/たかやさんりょう/たかやさんじょうりょう)は、日本書紀に現れる天津日高彦火火出見尊(ホオリ)の陵。 可愛山陵(えのみささぎ、瓊瓊杵尊陵)・吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ、天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵)とともに、神代三山陵の一つである[1]。 歴史『古事記』に「御陵者、即在二其高千穂山之西一也」とあり、『日本書紀』に「葬二高屋山上陵一」(一、二は返り点)、『延喜式諸陵式』には「日向高屋山上陵、彦火火出見尊陵、在二日向国一、無二陵戸一」とあるが、当時すでに所在が明確に知られていなかったらしい。 久之、彥火火出見尊崩、葬日向高屋山上陵。 近世、所在について種々の検討が行なわれた。 現在の治定地は鹿児島県(大隅国)であるが、大隅国は和銅6年(713年)にすでに日向国から分離して成立していたところ、養老4年(720年)に成立したとされる日本書紀はウガヤフキアエズが日向国(宮崎県)で没した旨を記録していることなどから、本来の神代三陵の場所は、宮崎県であるとする説が根強い。 この日本書紀の記述にある日向国は今の宮崎県であるとする説が主張するのは、713年に大隅国は日向国から分離して成立していたのであるから、それから7年後の720年に成立した日本書紀が大隅国で起きた記事を日向国と書くはずがない。だから日本書紀が記する日向国は薩摩、大隅の分離後の日向国つまり現在の宮崎県であるというものである。 しかし日本書紀には、日本書紀が成立する18年前の702年に薩摩国が成立していたにもかかわらず「大隅の隼人、阿多の隼人」と書かれてあり、延暦16年(797年)に完成した続日本紀のように「大隅、薩摩二国の隼人」とは記されていない。「薩摩」と書かずに、一貫して規則的に「阿多」と書いている。 すなわち、古事記、日本書紀は、ともにこれらの書が成立した時点での国名、地名によって記載を行なっているのではない。ある事件を記する場合は、その事件が起きた当時の国名、地名の呼び方によって記載を行なっているのである。 このような表記の規則は、続日本紀にも明確にみとめられ、大隅国が成立した713年以前の710年の記事では「日向の隼人、曾の君、細麻呂」と記している。「大隅の隼人」とは記していない。そして713年以後の717年、723年等の記事では、「大隅、薩摩二国の隼人」と記し、「日向の隼人」とは記していない。 現在の治定江戸時代後期の地誌『三国名勝図会』では内之浦(現在の肝付町)の北方村国見岳がその所在地とされた。 明治元年に三島通庸らが、明治3年に田中頼庸らが、1873年(明治6年)に樺山資雄がそれぞれ調査し、翌1874年(明治7年)7月10日、当時の政府によって溝辺村(現在の霧島市)の神割岡がホオリの陵と定められ整備された。 これは、古事記の「高千穂山の西」という記述に基づいて「高千穂山」を高千穂峰とみなし、高千穂峰の西に神割岡がありその近くに天津日高彦火火出見尊(ホオリ)を祀る「鷹大明神社」(鷹屋神社)があって、正保6年(1649年)の棟札に鷹屋大明神と記されていたことから「鷹」を「高屋」の「タカ」と結びつけたもの(鷹屋=高屋である)と考えられている[2](社伝によるとこの鷹屋神社は、往古は高屋山陵下の神割岡の一角に鎮座していたが、住民が神威を畏れ応永18年(1411年)に現在地に遷座されたという)。 1874年(明治7年)、宮内省により、可愛山陵(えのみささぎ)、高屋山上陵(たかやのやまの えのみささぎ)、吾平山上陵(あひらのやまの えのみささぎ)が治定されたとき、高屋山上陵は鹿児島県霧島市溝辺町麓の墳墓に治定された。 御陵は標高390mの神割岡の頂にある。陵形は円墳で、鳥居と柵で仕切られた御拝所の正面から約60m上の山頂に築かれているという。山陵全体の敷地面積は約53,000平方メートルある。 明治5年5月23日に明治天皇が、1907年(明治40年)10月28日に当時の皇太子(大正天皇)の代理として侍従の有馬純文がそれぞれ参拝した。1920年(大正9年)3月30日には当時の皇太子(昭和天皇)が東郷平八郎を伴って参拝している。1940年代に皇紀2600年記念事業の一つとして東側からの参道が整備された。1962年(昭和37年)5月には当時の皇太子(明仁上皇)と皇太子妃(上皇后美智子)が参拝した。 1972年(昭和47)10月20日、第27回国民体育大会に出席するために来県した天皇、皇后が参拝[3]。
脚注
参考文献
関連項目座標: 北緯31度49分36.83秒 東経130度41分28.79秒 / 北緯31.8268972度 東経130.6913306度 |