高野紙高野紙(こうやがみ)は紀州高野紙あるいは古沢紙とも呼ばれる。和歌山県九度山町と高野町で古くから作られていた和紙で、高野紙十郷と呼ばれる村でしか生産されていなかったといわれる。高野十郷は、現在の九度山町笠木、上古沢、中古沢、下古沢、椎出、河根、東郷の七村と高野町西郷、西細川、東細川の三村で[1]、南海高野線沿線あるいは不動谷川流域地域にあたる。地域ごとに古沢紙、細川紙、河根紙といった細分呼称もあり[2]、サイズ等若干の相違も見られるが、総称として高野紙または紀州高野紙と呼ぶ。一時は職人がほとんどいなくなり存続さえも危ぶまれたが、一人の女性が受け継いでいる。[3] 歴史高野紙の起源については二つの説話が残されている。一つは、伊都郡かつらぎ町新城に「楮(かご)の森丹生明神(丹生都比売(にゅうずひめ))の祭祀(さいし)が、楮の栽培と利用を教えた」というもの。もう一つは弘法大師が古佐布荘(九度山町古沢)で「紙の製法を教えた」というものである。[4] 鎌倉時代初期には、高野山の経典の印刷用紙や経巻の書写用紙に使用。活字印刷が進んだ明治時代以降になると、紙の目が粗いため出版用紙に使われなくなったが、丈夫な厚紙なので、傘紙、障子紙、合羽、紙袋、提灯などに使用された。[1] 埼玉県比企郡小川町で生産される細川紙は、高野山で修行した僧が細川というところで技術を習得し、故郷に伝えたと伝承され、道具、製法がきわめてよく似ている。2014年には細川紙がユネスコの無形文化遺産に登録されている。 高野紙にまつわる文化古澤厳島神社等で和紙づくりの繁栄を祈念する祭事「えびすのお渡り」等が伝わっている[6]。 高野紙の生産工程楮(こうぞ)の採取2~3年生の楮の葉の落ちたものから刈り取る。長さ1~1.2mにそろえて日陰に置き、乾燥しすぎないように保管する。 蒸す使う前に1晩水に浸け柔らかくする。大きな窯に水をいれ、その中に楮をたて、上から楮蒸し桶をかぶせて2~3時間蒸す。 皮むきふかし終えた楮は温かいうちに皮をむく。外皮の黒皮と緑色のあま皮を小刀で削り、白皮にする。 煮る皮むきした白皮を川に運び浸ける。大釜に水と煮熟剤としてソーダ灰(大正時代以前は木灰)を入れて煮沸させる。沸騰したら楮の皮をいれ、全体が煮えたら(1時間程度)止める。煮た楮の皮は灰汁をしぼる。 叩き解す煮た楮を充分に水切りし、棒で打ち続ける。強く打ってむやみに叩き切るのではなく、繊維の束をほぐすように打つ。 漉く水を張った漉き舟に叩き解した楮を入れ、トロロアオイの粘液を加えてさらにかき混ぜる。紙簀と桁を使って3回ほどすくい取る。漉き簀に竹ではなく萱(茅)を用いるのは他に類のない高野紙の特徴。萱(茅)は山上の標高が高いところで採れる細くて節の長いススキで、1つの漉き簀に使うのは150本程度。[7] 干す干し板に刷毛を使わず、紙の縁を指先で擦って押さえる。天日で乾燥させる。 紀州高野紙伝承体験資料館紙遊苑紀州高野紙伝承体験資料館が九度山町「勝利寺」の境内にある。先代の住職の住居で、天皇・上皇の高野山参詣の宿泊所にもなっていた建物で、改修の後、1999年に「紙遊苑」として開館し、高野紙の紙漉き体験ができる。 南海高野線九度山駅から徒歩約30分(約1.5km)、またはJR西日本和歌山線高野口駅から徒歩約40分(約3.0km)。 普及活動高野町内の旧西細川小学校で、地域住民の協力のもと「和紙の会」が開催されているほか、高野紙の研究や普及に努める「高野細川紙研究会」が結成されている[8]。 脚注
関連項目
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