1969年の近鉄バファローズでは、1969年の近鉄バファローズの動向をまとめる。
この年の近鉄バファローズは、三原脩監督の2年目のシーズンである。
概要
開幕直後は阪神から移籍したジーン・バッキーが前年の負傷の影響から4連敗と不調、チームも4月下旬に9連敗を喫し最下位に低迷していたが、直後に6連勝で波に乗ると、5月中旬から怒涛の12連勝をマークし一気に首位争いに浮上。その後も連勝を重ね、6月26日には阪急を直接対決で下し、初めて首位に立った。打撃陣では大砲として獲得したジムタイルが両足の故障でまともに走れず「得点が本塁打を下回る」という不名誉な記録を残し1年で解雇された一方で、2年目の永渕洋三と小川亨がレギュラーに定着し、永渕は張本勲と同率で首位打者となり、またジムタイルの離脱で伊勢孝夫が一塁のレギュラーを獲得した。一方投手陣はバッキーが結局1勝も挙げられずこの年で引退したものの、鈴木啓示が3年連続20勝となる24勝を挙げ初めて最多勝のタイトルを獲得し、清俊彦も自身初の2桁となる18勝を挙げ、15勝の佐々木宏一郎と合わせて先発三本柱が安定した成績を残してチーム73勝のうち57勝をこの3人が稼いでチーム防御率もリーグ唯一の2点台を記録し、55完投はリーグ1位。7月以降阪急と熾烈なマッチレースを展開したチームは、10月15日の終了時点で阪急を勝率でわずかに上回り、最後の直接対決4連戦を迎えたが、最初の18日のダブルヘッダー第1試合で清が相手投手の宮本幸信にサヨナラ本塁打を打たれ敗れると、次の第2試合も佐々木が終盤に捕まり大敗、そして準本拠地藤井寺球場で行われた10月19日の試合は清と鈴木で3点を失い、その後2点を返したがあと1点届かず、悲願の初優勝の夢はあと一歩のところで潰えた。
チーム成績
レギュラーシーズン
1969年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
|
8月終了時
|
9月終了時
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最終成績
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1位
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阪急 |
--
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阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
阪急 |
--
|
2位
|
東映 |
3.5
|
近鉄 |
2.5
|
近鉄 |
0.5
|
近鉄 |
0.0
|
近鉄 |
0.5
|
近鉄 |
1.0
|
近鉄 |
2.0
|
3位
|
ロッテ |
4.0
|
東映 |
6.0
|
東映 |
8.0
|
東映 |
6.0
|
ロッテ |
8.0
|
ロッテ |
6.5
|
ロッテ |
5.5
|
4位
|
南海 |
6.0
|
ロッテ |
7.0
|
ロッテ |
8.0
|
ロッテ |
8.5
|
東映 |
14.5
|
東映 |
17.0
|
東映 |
19.5
|
5位
|
西鉄
|
南海 |
7.5
|
西鉄 |
9.0
|
西鉄 |
12.0
|
西鉄 |
15.0
|
西鉄 |
20.5
|
西鉄 |
25.0
|
6位
|
近鉄 |
7.5
|
西鉄 |
10.0
|
南海 |
16.5
|
南海 |
18.5
|
南海 |
22.0
|
南海 |
24.0
|
南海 |
26.0
|
[1]
オールスターゲーム1969
できごと
- 5月18日 - ジムタイルが対阪急6回戦(西宮)の2回表に3号本塁打を放つも、一塁ベース手前で左足が肉離れを起こして負傷し、伊勢孝夫がジムタイルの代走としてホームインする[2]。
選手・スタッフ
[3][4]
表彰選手
ベストナイン
|
選手名 |
ポジション |
回数
|
鈴木啓示 |
投手 |
初受賞
|
永淵洋三 |
外野手 |
初受賞
|
ドラフト
脚注
注釈
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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