F4F (航空機)F4F ワイルドキャット F4F ワイルドキャット(Grumman F4F Wildcat)は、アメリカ合衆国のグラマンが開発し、第二次世界大戦中に使用された艦上戦闘機である。愛称の「ワイルドキャット(Wildcat)」は山猫・野良猫の意味であるが、スラングでは意地悪女という意味も持つ。グラマンではF4F以降、艦上戦闘機に『○○キャット』という愛称を採用している。 グラマンだけではなくジェネラル・モーターズ社(GM)でも「FM ワイルドキャット」として製造された。生産機数自体はGM社製の機体の方が多い[注釈 1]。また、英海軍航空隊でも「マートレット(Martlet、イワツバメの意)」として運用された。 操縦経験のあるエリック・ブラウンは、第二次世界大戦初期に使用された戦闘機としては最優秀の一つと評価している[2]。 概要アメリカ海軍は1936年の新型艦上戦闘機の開発を、ブルースター社、セヴァスキー社とともにグラマン社にも競争試作を指示した。グラマン社はこれまでFF、F2F、F3Fといずれも複葉機の艦上戦闘機を海軍に納入しており、本機の最初の設計案(XF4F-1)も複葉機であった。しかしそれでは他社の案に劣っていたことから、単葉機(XF4F-2)として再設計され選定試験に応じた。 採用されたのはブルースター社の提案したF2Aバッファローであり、本機は落選した。しかしアメリカ海軍は本機にも興味を持ち、開発を続行させた。F2Aはブルースター社の生産能力の低さにより配備が進まず、それに代わって本機が大量に生産・配備されることとなった。 第二次世界大戦の開戦時アメリカ海軍の主力艦上戦闘機として日本海軍の零戦と戦った。防御力よりも運動性能を重視した零戦とは対照的に、「グラマン鉄工所 (Grumman Ironworks)」と呼ばれる強固な構造と生産性を重視したグラマンの設計思想[3]を体現した機体であり、後継機のF6Fヘルキャットが配備される大戦中盤まで主力として使用された。 各型F4F-3最初のロットは1940年12月5日に部隊配備、「レンジャー」と「ワスプ」に配備されたほか、海兵隊にもまわされている。しかし、実際に飛ばしてみるといくつかの問題点が残っており、パイロットの死亡事故が発生した。1941年11月には欠陥箇所を改良、エンジンを1段過給器付のP&W製R-1830-90に換装した型がF4F-3Aとして採用された。生産機数は3A型の95機を含めて288機。 なお数機が偵察機に改造され、F4F-3Pとなったほか、3A型を改造したF4F-3APも1機が製作されたとされる。 F4F-4この型から折り畳み翼を採用した。それまでのF4F-3などの型は翼が固定式であったために空母上での取り扱いに難があった上、珊瑚海海戦の教訓から空母に戦闘機の配備数を増やすという目標があったのだが、F4F-3では数を載せる上でも問題となっていた。しかし、それらの問題はこの型で解消された[注釈 2]。 なお、当初油圧による折り畳み機構を考えていたが、重量の問題で採用されず、手動式となっている。順次F4F-3Aと交代され、ミッドウェー海戦時にはほぼ完了、VMF-221のみが未だF4F-3型を使用していたが、1942年8月までにはF4F-4と交代している。ただし重量増加のため、甲板が狭く短い護衛空母には適さないとされ、FM-2型の開発につながった。また、このF4F-4は中高度向けの2段過給器付エンジンに換装し、1200hpの出力を得ているほか、機銃を2挺増やして12.7mm機銃6挺としている。ただし1挺あたりの弾数は450発から240発に低下、反動による機体の振動が増して、乗員からの評判は良くなかった。 F4F-71941年12月31日、アメリカ海軍はF4F-7を初飛行させた。これは偵察機として武装、防弾キャノピー、座席背部装甲板を排除して徹底的な軽量化を実行し、それで浮いた重量を燃料の増加に当て(そのため総重量は戦闘機型よりも大きい)、航続距離3700マイル、最大滞空時間25時間という数値を目指したものである。偵察用カメラを搭載し、いざというときには燃料を投棄して身軽になることも可能であった。 21機作られ、残りの発注は普通の戦闘機型として生産された。ガダルカナル方面で2機使用されたとも言われるが定かではない。 FM-11942年春、海軍からの指示でグラマン社はF6F量産に集中するため、F4FとTBFの生産中止を決定、生産ラインの切り替えが始められた。そしてゼネラルモーターズ社 (GM) が東海岸の5つの自動車工場を統合して作った、イースタン・エアクラフト(航空事業部)のリンデン工場に生産ラインが移された。GM で作られたワイルドキャットは型式名が「FM」となり、最初の量産型であるFM-1はF4F-4をほぼコピーしたもので、細部を工場の事情に合わせ手直しした程度であった。 本型は1942年4月18日に1800機が発注され、8月31日には量産初号機が初飛行した。そして翌年までに830機が生産された後、FM-2に切り替えられた。 FM-2狭く小さい護衛空母の甲板上では、重量面でF4F-4は運用が難しかった。さらに後継機であるF6F、F4Uはより大重量(特にF4Uは艦上戦闘機としては当時もっとも重かった)で、アメリカ海軍は1942年、F4Fの軽量型を発注する。これに応えてグラマン社はXF4F-8を開発。これは軽い鍛造製シリンダーを持つ1段2速過給器付R-1820-56サイクロンエンジンを搭載し、出力が150hp増加したにもかかわらず、重量は102kg減少していた。これにより上昇力や運動性が向上したが、過給器が2段から1段に変更されたため中高度以上での性能は低下、低空支援戦闘機としての性格を強めている。また再び機銃が4挺に戻されている(弾数は1挺あたり280発に増加しているが、同じ4挺搭載のF4F-3型よりも少なく、重量は減少している)ほか、エンジンカウル、フラップなど、徹底した設計の見直しが図られている。 試作型のXF4F-8型は1942年11月8日に初飛行、上記のとおりFM-2としてゼネラルモータースが生産し、主に護衛空母に搭載され、上陸作戦における低空支援任務や特攻機の迎撃に活躍した。本型では従来型にあった着艦時の癖がなくなり、狭い護衛空母への着艦が多い乗員には好評であった。 この型はレイテ沖海戦にも参加したほか、その後の対日戦でも活躍、エースパイロット4人を輩出している。さらにこの軽量な機体は、低高度域ではF6F、F4U、P-47、さらには最優秀機の誉れも高いP-51に対しても大きく劣るものではないと評価された。GM の生産力が遺憾なく発揮された結果、生産数は4127機となり、F4Fシリーズの中では最も多い。 諸外国のF4FF4Fはアメリカ海軍のみならず海外からも注目され、フランス海軍はF4F-3(社内呼称G-36A)を81機発注した。しかし納品前にフランスはドイツに降伏したため、イギリスに供与され「マートレットMk.I」(Martlet:イワツバメの意)として使用された[注釈 3]。艦載戦闘機事情が切迫していた[注釈 4]イギリス海軍は、さらに「マートレットMk.II」として再発注した。マートレットMk.IIは、アメリカ海軍のものよりも若干手狭であるイギリス空母での運用を考慮して、アメリカ軍向けのF4F-4よりも早く主翼の折り畳み機構が要求されている。ただしエンジンの重量増に加え、機銃を2挺増設したため、自重が450kg増加している。 イギリス海軍は折り畳み翼への変更ための納品遅延を了承、本格的に納品されたのは1941年半ばになってからであった。納品された機体は護衛空母「オーダシティ」に艦載され、船団護衛に活躍、Uボート撃沈やFw200撃墜などの戦果を残した。これにより、潜水艦に対する護衛空母の有効性が証明され、その後の大量配備につながった。また、空母「イラストリアス」にも搭載され、1942年5月に行われたアイアンクラッド作戦(マダガスカル占領作戦)に投入され、ヴィシー政権フランス軍と戦闘を行った。 フランスとイギリス以外には、ギリシアからも30機の発注が1940年11月にあったが、こちらも輸送中の1941年4月にギリシアが降伏。機体は輸送の途上で英領ジブラルタルにあったため、マートレットMk.IIIとしてイギリスがそのまま運用した。この機体はF4F-3Aと同等である。 また、イギリスは武器供与協定に基づき、GR-1820-G250A-3エンジンを装備したマートレットMk.IVを受け取っている。この型はアメリカでF4F-4Bという型式があるように、一応の別型である。ただしアメリカ軍は使用していない。 さらに、イギリスはFM-1型312機を供与されており、これをマートレットMk.Vとして採用している。この型は、1944年1月にワイルドキャットMk.IVに名称変更、番号が変わっているため注意が必要である。 このほか、イギリスはFM-2型を340機供与され、ワイルドキャットMk.VIとして採用した。 活躍太平洋戦争初期において、珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦などに参加した。 太平洋戦争緒戦においては「エンタープライズ」などに配備されていたほか、同艦がウェーク島に輸送した12機のF4F(VMF-211)のうち、日本軍の攻撃から生き残った4機のF4F(一説には5機)が反撃を行い、駆逐艦「如月」を撃沈するなど、圧倒的な兵力で押し寄せた日本軍に対して奮戦した事例がある。 1942年8月7日、ガダルカナルにおいてジェームズ・ジュリアン・サザーランドのF4Fは日本軍機を1機撃墜後に一式陸攻からの攻撃で被弾、さらに3機の零戦(柿本円次、羽藤一志、山崎市郎平)に攻撃され機銃が故障するも撃墜はされず坂井三郎も加勢に来たが火災発生により脱出、生還してパイロットとして復帰した後に4機撃墜してエース・パイロットとなった。 F4Fは当初から強固な構造の機体に自動防漏機能を備えた燃料タンクを搭載するなど防御力を重視した設計であったが、配備後にもパイロットの意見を取り入れ、改修で防弾ガラスや操縦席後部の防弾鋼板を追加したことにより「グラマン鉄工所(Grumman Iron Work)」を体現する機体となった。改修後のF4Fに対しては零戦の7.7mm機銃では効果が薄く、弾数の少ない20mm機銃が必要となったが、20mm機銃の命中率を上げるには高い技量を要する近接射撃によるため、F4Fを撃墜するには一定の技量が必要とされた。坂井はサザーランド機へ確実に命中させるため限界まで接近した際、オーバーシュートしている[注釈 5]。 運動性能を重視した日本軍機に比べ格闘性能は劣っていたが、設計段階から強度を重視した機体であるため急降下性能は零戦よりも優れていた。 零戦最大の弱点は「高速飛行時の運動性の低下」及び「急降下性能の低さ」であり[注釈 6]これを見抜いたアメリカ軍は「三つのネバー(Never)」と呼ばれる勧告[注釈 7]を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。F4Fの急降下性能は零戦より優れていたことから防御力と合わせて背後を取られても即撃墜の可能性は低いため、落ち着いて急降下に移ることが可能であった。アクタン・ゼロにより零戦の解析が進むとサッチウィーブやロッテ戦術などの編隊による攻撃を徹底したこともあり、キルレシオが改善されていった。 ドイツ空軍との戦いにおいても、北アフリカ戦線において、英軍の「マートレット」を含め活躍し、海上では護衛空母に搭載されて空中警戒や哨戒任務に使われた。ドイツの戦闘機は概ね高翼面荷重の高速機であり、対日戦とは逆に翼面荷重の低さを生かした格闘戦で対抗した。また高火力のドイツ軍機に対しても防御力の高さは効果を発揮した。 零戦程ではないとしても、1941年時点の艦上戦闘機の中では航続距離が長い部類であり、長時間行動できたことは大きな特長であった。 派生型
諸元
現存する機体
登場作品
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンクInformation related to F4F (航空機) |