ゼネフェルダーは全名をアロイス・ヨハン・ネポムク・フランツ・ゼネフェルダー(Aloys Johann Nepomuk Franz Senefelder)といい、俳優であった父親がオーストリア帝国領(現在のチェコ)のプラハの舞台に出演していた際に生まれた。彼はミュンヘンで育ち教育を受け、インゴルシュタットで法学を学ぶ奨学金を受けた。1791年に父が没すると、彼は母と8人の兄弟姉妹を養うために学業を半ばであきらめ俳優となった。彼の書いた戯曲『娘達の鑑定家』(Connoisseur of Girls)は大いに成功した。
自力での印刷とリトグラフの発見
自分の戯曲『マティルデ・フォン・アルテンシュタイン』(Mathilde von Altenstein)の印刷をめぐる問題により彼は多額の借金を背負い、新しく書いた戯曲を出版する余裕がなくなった。彼は自らエッチングで印刷用の原版を作ろうとし、インク製造台としてゾルンホーフェンで産出されるきめの細かい石灰岩(ゾルンホーフェン石灰岩)の板を買った。ある日彼は油性クレヨンで石灰岩の上にメモを書き、後で硝酸で洗い落とそうとしたがクレヨンの跡が残ってしまった。この跡の部分にはよく油が乗ることに気付いた彼は、油性インクで石灰岩上のクレヨン跡に書き、紙を押し付けたところ紙にインクの形を転写することに成功した。
ゼネフェルダーはヨーロッパ中でこの特許を取得し、その発見のすべてに関する書物を1818年に出版した(Vollstandiges Lehrbuch der Steindruckerei、『石版術全書』)。1819年には英語とフランス語にも翻訳された(A Complete Course of Lithography)。この本は彼が石版印刷術を発見した経緯と石版印刷術を行うにあたっての実践的な解説とを合わせた内容で、20世紀初頭まで広く読まれた。
彼はリトグラフの可能性を芸術の分野にも広げた。エングレービングなど熟練した技術を必要とする従来の版画とは違い、リトグラフは画家本人が慣れ親しんだペンで直接石の上に描くことが可能だった。1803年には早くも、アンドレ社はロンドンで芸術家達の作ったリトグラフを収めた画集『ポリオートグラフィの見本集』(Specimens of Polyautography)を出版している。以後、1810年代にはリトグラフは美術の新しい技法として、また大量印刷する商業出版物のための簡単で早い図版制作技法として急速に普及した。