ウィリアム・セバスチャン・コーエン (英語 : William Sebastian Cohen 、1940年 8月28日 - )は、アメリカ合衆国 の政治家 。共和党 員だが、ビル・クリントン 政権で第20代アメリカ合衆国国防長官 を務めた。ユニテリアン主義 者[ 1] である。
経歴
生い立ち
1940年8月28日にメイン州 バンゴー で、ロシア系 ユダヤ教徒 の父とアイルランド系 プロテスタント の母との間に誕生する。高校と大学時代にはバスケットボール選手として活躍しメイン州のオールチームにボウディン大学 時代の活躍によりニューイングランド のスポーツ殿堂に選ばれている。これにより2001年にセオドア・ルーズベルト賞 をNCAA から受賞した。大学卒業後はボストン大学 のロースクール に入学し1965年に卒業した。
連邦議員
若き日のコーエン
1972年 のアメリカ合衆国下院議員選挙で連邦上院議員選挙に鞍替えしたウィリアム・ハサウェイ(民主党)が選出されていたメイン州第2選挙区から出馬し初当選した。1期目は司法委員会 に所属しウォーターゲート事件 の調査に関わった。この時彼は共和党 を離党しリチャード・ニクソン 大統領の弾劾 に加わった1人となった。このとき雑誌のタイム は彼を「将来のアメリカのリーダー200人」の1人と取り上げた。下院議員を3期務めた後、1978年の中間選挙 で連邦上院議員 選挙に出馬し、再選を目指したハサウェイを破り初当選した。その後1984年と1990年の選挙でも当選し上院議員を通算3期務めた。1996年の選挙には出馬せず彼の下で働いたスーザン・コリンズ (現在の上院議員)に選挙区を譲った。(もう1人のメイン州選出上院議員オリンピア・スノー も彼の下で働いたことがある。)
上院では軍事委員会 や国家安全保障及び行政委員会(1979年から1997年)、インテリジェンス委員会(1983年から1991年・1995年から1997年)に所属、インディアン問題委員長(1981年 から1983年 )・高齢化に関する特別委員会委員長(1995年 から1997年)を歴任した。
国防長官
ビル・クリントン 大統領と(1997年9月18日)
ウィリアム・コーエンとマレーシアの首相 マハティール・ビン・モハマド (1998年1月12日)
上院議員引退後の1997年1月24日から2001年1月20日までは第20代アメリカ合衆国国防長官 を務めた[ 2] 。1998年にアルカーイダ によりタンザニア のダルエスラサームとケニア のナイロビ でアメリカ大使館爆破事件 が起きた数ヵ月後にイラク でのデザート・フォックス作戦 の実施、ユーゴスラビア に対するアライド・フォース作戦 の決定に関与した。2000年に欧州連合軍最高司令部 最高司令官のウェズリー・クラーク (英語版 ) の解任を行っている。
4年ごとの国防計画見直し では冷戦 終結によりF-22ラプター ・F-18ホーネット など戦闘機 の購入費用を削減し、アメリカ陸軍 を15,000人・アメリカ空軍 を26,900人・アメリカ海軍 を18,000人・アメリカ海兵隊 を1,500人人の合計61,700人を削減をする決定を下した。また主に州兵 からなる54,000人や民間部門80,000人の削減も決定した。
またアメリカ軍内にあるレズビアン やゲイ の治療・人種差別 ・セクシャルハラスメント 問題にも取り組んだ。
その後
現在はロビイスト 会社である「コーエン・グループ」を経営し、国防関係企業を顧客としている。国防長官から裕福なロビイストへの転進ぶりがワシントン・ポスト で取り上げられたこともある。また、社団法人日米平和・文化交流協会 の理事も務める。
2018年秋の叙勲で旭日大綬章 を受章。
私生活
コーエンとジャネット・ランハート
1987年に最初の妻と離婚したが、1996年2月14日にアフリカ系アメリカ人 のテレビジャーナリストであるジャネット・ランハート と結婚した。
2009年6月11日に夫妻でホロコースト博物館を訪れていたところ、白人至上主義 者の88歳の男が銃を発砲する事件に出くわしたが怪我は負わなかった。
脚注
関連項目
外部リンク
その他のリンク