ウラジーミル・ブット
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ブット(ロシア語: Владимир Владимирович Бут、1977年9月7日 - )は、現ロシア・クラスノダール地方、ノヴォロシースク出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはMF。兄のヴィタリー・ブット(1972年11月16日 - )もサッカー選手であった。 来歴クラブ1992年にロシア・ファーストディビジョン(2部相当)所属のFCチェルノモレツ・ノヴォロシースクでサッカー選手としてのキャリアを始めた。1994年、17歳の時にブンデスリーガ所属のボルシア・ドルトムントに移籍。1993年9月27日に父親が死去した事も移籍の理由の一つとして語ってる。ボルシア・ドルトムントを率いていたオットマー・ヒッツフェルトはこの時点においてブットを"ダイヤモンドの原石"と述べるなど、ブットはヨーロッパで最も有望な選手の一人とみなされていた。 1996年8月21日、フォルトゥナ・デュッセルドルフ戦でデビューを果たして、そのシーズンは11試合に出場1得点を挙げた。UEFAチャンピオンズリーグ 1996-97ではグループリーグのヴィジェフ・ウッチ戦やステアウア・ブカレスト戦でしか出場しなかったものの、チームはチャンピオンズリーグで優勝を果たし、ロシア人として初めてUEFAチャンピオンズリーグのタイトルを獲得したイーゴリ・ドブロヴォリスキーに続く2番目のタイトル獲得者となった。 しかし、2000年あたりから急激にパフォーマンスが低下して2000年7月から10月まではアマチュアチームに降格させられた。同年、SCフライブルクに移籍をして無難に出場を果たすも2001/02シーズンでチームは降格。2003年にハノーファー96へ移籍をしたが2シーズンで出場したのは4試合に留まった。 2005年5月、母国ロシアのFCシンニク・ヤロスラヴリに移籍して7試合に出場。退団後は長い間、無所属であった。2007年1月にはルーマニアのFCディナモ・ブカレストでトライアルを受けたが不合格となった[1][2]。2008年、地元のFCチェルノモレツ・ノヴォロシースクに移籍して[3]、37試合出場の5得点を記録した。 2008年、現役引退を発表したが、6ヵ月後にギリシャのレバディアコスFCと2年契約をして移籍をした[4]。しかし、レバディアコスFCの監督はブットを使う事を拒否したことから公式の試合には1試合も出場できなかった。2009年9月、ギリシャのOFIクレタに移籍[5]。ここでサッカー選手としてのキャリアを終了させた。 代表U-21では7試合に出場。ロシア代表では2試合に出場をした。
タイトルクラブ
脚注
参考文献 |