ウード1世(フランス語:Eudes Ier, 950年ごろ - 996年3月12日)は、ブロワ伯、シャルトル伯、ランス伯、プロヴァン伯、シャトーダン伯およびオモワ伯。ブロワ伯ティボー1世と、ヴェルマンドワ伯エルベール2世の娘リューガルドの間の息子。西フランク王ロテールより宮中伯の位を与えられた。
生涯
母の実家ヴェルマンドワ伯同様、ウードはカロリング家に忠実でカペー家と対立した。父ティボー1世とランス大司教オデルリックの間のクシーの城をめぐる争いの後、ウード1世はこの城を与えられた。
970年代に、ブルターニュの支配をめぐる争いにおいて、ウード1世はレンヌ伯領を支配下に置き、ブルターニュ公コナン1世は領内におけるウード1世の一族の権利を認めた。977年ごろに父が死去し、ウード1世は父が保持していた伯領を継承した。
987年、ウード1世はロレーヌ公シャルルを支持しユーグ・カペーと対立した。991年6月、ウード1世はムランを手に入れた。しかしユーグ・カペー、ヴァンドーム伯ブシャール1世、ノルマンディー公リシャール1世およびアンジュー伯フルク・ネラが結集し、同年末にウード1世よりムランを取り戻した。
995年ごろ、ウード1世はすでにブルターニュ公ジョフロワ1世と対立していたアンジュー伯フルク・ネラとの戦いを開始した。ウード1世は義兄弟のアキテーヌ公ギヨーム4世およびフランドル伯ボードゥアン4世と同盟を結んだ。ノルマンディー公リシャール1世はかつてフルク・ネラと対立していたにもかかわらず、フルク・ネラ側についた。995年から996年にかけての冬にウード1世らはランジェを包囲したが、ウード1世が病にかかり、トゥールのマルムティエ修道院へと運ばれたが、996年3月12日に修道院で死去した。
結婚と子女
ウードは983年ごろ、ブルグント王コンラートとマティルド・ド・フランスの娘ベルト・ド・ブルゴーニュと結婚し、以下の子女をもうけた。
- ロベール(980年から996年の間に死去)
- ティボー2世(985年頃 - 1004年) - ブロワ伯
- ウード2世(990年頃 - 1037年) - ブロワ伯
- ティエリー(? - 996年)
- アニェス - ジョフロワ2世・ド・トゥアールと結婚
- ロジェ(? - 1022年)
脚注
参考文献
- Abel, Mickey (2012). “Emma of Blois as Arbiter of Peace and the Politics”. In Martin, Therese. Reassessing the Roles of Women as 'Makers' of Medieval Art and Architecture. 1. Brill
- Bradbury, Jim (2007). The Capetians: The History of a Dynasty. Hambledon Continuum
- Bachrach, Bernard S. (1993). Fulk Nerra, the Neo-Roman Consul, 987-1040: A Political Biography of the Angevin Count. University of California Press
- Fighting Techniques of the Medieval World: Equipment, Combat Skills and Tactics. St. Martin's Press. (2005)
- Bourchard, Constance Brittain (1999). “Burgundy and Provence 879-1032”. In Reuter, Timothy. The New Cambridge Medieval History. III. Cambridge University Press
- Dunbabin, Jean (1985). France in the Making, 843-1180. Oxford University Press
- Weinfurter, Stefan (1999). The Salian Century: Main Currents in an Age of Transition. University of Pennsylvania Press