エドモントン・オイラーズ(Edmonton Oilers)は、カナダ・アルバータ州エドモントンを本拠としているナショナルホッケーリーグ(NHL)所属のプロアイスホッケーチームである。
歴史
1972年にアルバータ・オイラーズとしてWHA(ワールドホッケーアソシエイション)の創立メンバーとなる。創立時のオーナーはビル・ハンター(Bill Hunter) 。ハンターは従前はエドモントン・オイル・キングスのオーナーであり、後の西部ホッケー・リーグ (Western Hockey League) の創立者でもあるが、彼のエドモントンへのプロホッケーチーム誘致はNHLに頑として拒絶され続けた。アルバータ・オイラーズという名の元々の命名理由は、カルガリー・ブロンコス (Calgary Broncos) の解散後において、アルバータ州の2大都市であるエドモントン、カルガリー双方でのホームゲーム開催を企図していたこととされる。もっとも、チームはエドモントンのみで全興行を行ったが、これは財政上の理由やNHLかWHAのいずれかがカルガリーへ進出するのを容易ならしめるためといわれている。翌年には実態を反映させるために「エドモントン」・オイラーズへと改名。
1978年になって、新オーナーのピーター・ポクリントン (Peter Pocklington) は、球団存続を断念したインディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers) から、当時まだ新人だったのちのスーパースター、ウェイン・グレツキーを獲得した。グレツキーは間もなく閉鎖されるWHAの最後の新人王となり、チームはウィニペグ・ジェッツ、ハートフォード・ホエーラーズ 及びケベック・ノルディクス とともにNHLに参画した。
オイラーズは、グレツキー、マーク・メシエやケビン・ロー (Kevin Lowe) ら有力若手選手を擁し、NHL参加1年目からスタンレー・カッププレイオフ進出を達成し,
その名をリーグに轟かせた。このプレイオフではフィラデルフィア・フライヤーズに3敗と敗れ、またポール・コフィーやヤリ・クリが加入した2年目のレギュラーシーズンの順位は月並みに終わったが、1981年のプレーオフ1回戦では、絶大な人気を誇ったモントリオール・カナディアンズを3勝0敗で破る大番狂わせを演じた。
1981-1982 シーズンでは、レギュラーシーズンでリーグ最高の成績を収めたものの、若いチームゆえに自らを見失って地区準決勝で敗退した。1983年は初めてスタンレー・カップ決勝に進出したが、3度の優勝経験を持つニューヨーク・アイランダーズの前に1勝3敗で屈した。しかし、その1年後、4勝1敗でアイランダーズを下し、スタンレー・カップ初優勝を決めた。
これが1980年代の「アルバータ王朝時代」、すなわちエドモントンとカルガリー・フレームスがその後5シーズンに渡ってリーグトップの座を巡ってしのぎを削る時代の幕開けとなった。エドモントンは1985年に再びカップ優勝を成し遂げたが、1986年の西部地区(当時はキャンベル地区)決勝の第7試合では宿敵フレームスに痛恨のオウンゴールで敗退、フレームスのカップ決勝(優勝はモントリオール)進出を許した。
1987年はエドモントンは再度カップ決勝に進出し4勝3敗の僅差でフィラデルフィア・フライヤーズを下した。また1988年にはスタンレー・カップを通じて18試合中僅か2敗と無類の強さを見せ、ボストン・ブルーインズを破って過去5年間で4回目の優勝を飾った。
しかし1988年の夏には、グレツキーが金銭1,500万ドルと2選手との交換トレードでロサンゼルス・キングスへ移籍することとなった[1]。この移籍問題はカナダ議会での議題にあがった。この移籍騒動によって1989年のシーズンは混乱続きとなり、エドモントンは1982年以来初めて地区決勝に進出を果せず、またキングスも同様の混乱によって7戦方式のシリーズに敗退した。
続く1990年もエドモントンには混乱が続く。とりわけオールスター選抜選手で将来の殿堂入りを目されたゴーリーのグラント・フューアがコカインの所持及び使用で告発されたことは痛手であった。しかしチームは新ゴーリーのビル・ランフォードに続いて勢いを盛り返し、地区でカルガリー、ロサンゼルスに次ぐ成績であったにもかかわらず、5度目のカップ決勝に進出し4勝1敗でボストン・ブルーインズを下した。ゴーリーのランフォードはこの時の目覚しい活躍によりプレーオフ最優秀選手賞を獲得している。
しかし徐々にチームには衰微の兆しが現れ始めていた。グレツキーの移籍はNHLにおける急激な年俸の高騰という新たな現実をもたらし、エドモントンのような市場規模の小さなチームは、もはやアメリカ合衆国大都市のチームが提示する高額年俸とは競争ができなくなりつつあった。マーク・メシエ、ヤリ・クリ、ランフォードやグレン・アンダーソン (Glenn Anderson) らの有力選手はすべて相次いでチームを去り、残されたのは実績の少ない若手選手ばかりとなった。1991年と1992年には、地区決勝に進出したものの、オイラーズは過去5年間を支配した往時の面影はなかった。1993年にはリーグ参加以来初めてプレイオフ進出を逃し、その後4年間はプレイオフに姿を見せない低迷が続いた。
オーナーであるポクリントンの所有する精肉会社ゲイナーズ (Gainers) がスキャンダルと不正行為の追及を受け倒産するなど、氷上外でもトラブルは続いた。1990年代のオイラーズはチームの存亡をかけて死に物狂いであった。1999年、ついに37のオーナーから構成されるコンソーシアムがチームを買収し、エドモントンでのチーム存続を明言した。短期間に2つのカナダのチームを失うという事態を深く憂慮したNHLの努力によって、オイラーズはこの支援を受け続けている。
1997年にはオイラーズはプレイオフに久々出場を果たし勝利を重ねた。特に7戦までもつれたダラス・スターズを破ったシリーズは当時の最もエキサイティングな試合の1つといわれ、延長戦において追いすがる敵をかわして決めたゴールで勝利した。次のラウンドではコロラドに敗れはしたものの、オイラーズのプレーオフへの復活に陶然となったと伝えられる。
1998年はエドモントンはプレイオフ2回戦でダラスと再び合いまみえたが、急速に力をつけつつあったダラスの勝利に終わる。ここに、ホッケー史上稀に見る熾烈なライバル関係が始まる。1997年から2003年までの間、実にプレーオフで両者は6度顔を合わせ、そのうち5試合は1回戦での対戦であった。2002年こそ対戦はなかったが、これは両チームともにプレーオフ進出を果せなかったためである。2004年には、この拮抗状態が敗れエドモントンはプレーオフ進出がならなかったが、他方ダラスは進出しコロラド・アバランチと対戦している。
2003年11月22日オイラーズは、NHL初の野外試合、「ヘリテージ・クラシック (Heritage Classic)」を主催した[2]。NHL観客動員数最高の55,000人超の観客をエドモントンのコモンウェルス・スタジアムに集めたこの試合で、オイラーズはモントリオール・カナディアンズに4対3で敗れた。
2004年1月23日オイラーズは、AHLに属するマイナーチームのトロント・ロードランナーズが2004 - 2005シーズンの試合を本拠地のレクソール・プレイスで開催すると発表した。これは、NHLの同シーズンが2004年から2005年のNHLロックアウトにより試合中止となることを受けたものである。
2005-06シーズン、オイラーズはカンファレンス8位とぎりぎりのラインでプレイオフに進出し、1回戦でシーズン最多勝ち点を獲得したチームに与えられるプレジデント・トロフィーを獲得したデトロイト・レッドウイングスと対戦した。大方の予想を裏切りレッドウイングスを破り、2回戦でサンノゼ・シャークスを破り、カンファレンス決勝でアナハイム・マイティダックスを破り、プレイオフのフォーマットが変更されてから初めての「第8シードからスタンレーカップ決勝進出」したチームとなった。
スタンレーカップ決勝ではエースゴーリーのドウェイン・ロロソンを第1戦の怪我で欠きながらも第7戦までもつれ込ませるが、惜しくもカロライナ・ハリケーンズに破れスタンレーカップ獲得を逃している。
オイラーズはダウンタウン・エドモントンに建設中のロジャーズ・プレイスを2016-17シーズンに移転する予定である[3][4]。
シーズン別の成績
アルバータ/エドモントン・オイラーズ (WHA時代 1972年 - 1979年)
年 |
GP |
W |
L |
T |
GF |
GA |
PTS |
最終順位 |
プレイオフ
|
1972-73 |
78 |
37 |
35 |
6 |
259 |
250 |
80 |
ウェスト4位 |
不参加
|
1973-74 |
78 |
44 |
32 |
2 |
332 |
275 |
90 |
ウェイト3位 |
初戦敗退 (ミネソタ・ファイティングセインツ)
|
1974-75 |
78 |
36 |
38 |
4 |
279 |
279 |
76 |
セントラル5位 |
不参加
|
1975-76 |
81 |
27 |
49 |
5 |
335 |
398 |
53 |
セントラル4位 |
準々決勝敗退 (ウィニペグ・ジェッツ)
|
1976-77 |
81 |
34 |
43 |
4 |
243 |
304 |
72 |
ウェスト4位 |
準々決勝敗退 (ヒューストン・アエロズ)
|
1977-78 |
80 |
38 |
39 |
3 |
309 |
307 |
79 |
5位 |
初戦敗退 (ニューイングランド・ホエールズ)
|
1978-79 |
80 |
48 |
30 |
2 |
340 |
266 |
98 |
1位 |
決勝敗退 (ウィニペグ・ジェッツ)
|
エドモントン・オイラーズ (NHL時代 1979年 - )
年 |
GP |
W |
L |
T |
OL |
GF |
GA |
PTS |
最終順位 |
プレイオフ
|
1979-80 |
80 |
28 |
39 |
13 |
- |
301 |
322 |
69 |
スマイス4位 |
初戦敗退 (PHI)
|
1980-81 |
80 |
29 |
25 |
16 |
- |
328 |
327 |
74 |
スマイス4位 |
準々決勝敗退 (NYI)
|
1981-82 |
80 |
48 |
17 |
15 |
- |
417 |
295 |
111 |
スマイス1位 |
地区準決勝敗退 (LA)
|
1982-83 |
80 |
47 |
21 |
12 |
- |
424 |
315 |
106 |
スマイス1位 |
スタンレー・カップ決勝敗退 (NYI)
|
1983-84 |
80 |
57 |
18 |
5 |
- |
446 |
314 |
119 |
スマイス1位 |
スタンレー・カップ優勝
|
1984-85 |
80 |
49 |
20 |
11 |
- |
401 |
298 |
109 |
スマイス1位 |
スタンレー・カップ優勝
|
1985-86 |
80 |
56 |
17 |
7 |
- |
426 |
310 |
119 |
スマイス1位 |
地区決勝敗退 (CGY)
|
1986-87 |
80 |
50 |
24 |
6 |
- |
372 |
284 |
106 |
スマイス1位 |
スタンレー・カップ優勝
|
1987-88 |
80 |
44 |
25 |
11 |
- |
363 |
288 |
99 |
スマイス2位 |
スタンレー・カップ優勝
|
1988-89 |
80 |
38 |
34 |
8 |
- |
325 |
306 |
84 |
スマイス3位 |
地区準決勝敗退 (LA)
|
1989-90 |
80 |
38 |
28 |
14 |
- |
315 |
283 |
90 |
スマイス2位 |
スタンレー・カップ優勝
|
1990-91 |
80 |
37 |
37 |
6 |
- |
272 |
272 |
80 |
スマイス3位 |
カンファレンス決勝敗退 (ミネソタ・ノーススターズ)
|
1991-92 |
80 |
36 |
34 |
10 |
- |
295 |
297 |
82 |
スマイス3位 |
カンファレンス決勝敗退 (CHI)
|
1992-93 |
84 |
26 |
50 |
8 |
- |
242 |
337 |
60 |
スマイス5位 |
不参加
|
1993-94 |
84 |
25 |
45 |
14 |
- |
261 |
305 |
64 |
太平洋6位 |
不参加
|
1994-95 |
48 |
17 |
27 |
4 |
- |
136 |
183 |
38 |
太平洋5位 |
不参加
|
1995-96 |
82 |
30 |
44 |
8 |
- |
240 |
304 |
68 |
太平洋5位 |
不参加
|
1996-97 |
82 |
36 |
37 |
9 |
- |
252 |
247 |
81 |
太平洋3位 |
カンファレンス準決勝敗退 (COL)
|
1997-98 |
82 |
35 |
37 |
10 |
- |
215 |
224 |
80 |
太平洋3位 |
カンファレンス準決勝敗退 (DAL)
|
1998-99 |
82 |
33 |
37 |
12 |
- |
230 |
226 |
78 |
北西2位 |
カンファレンス準々決勝敗退 (DAL)
|
1999-00 |
82 |
32 |
26 |
16 |
8 |
226 |
212 |
88 |
北西2位 |
カンファレンス準々決勝敗退 (DAL)
|
2000-01 |
82 |
39 |
28 |
12 |
3 |
243 |
222 |
93 |
北西2位 |
カンファレンス準々決勝敗退 (DAL)
|
2001-02 |
82 |
38 |
28 |
12 |
4 |
205 |
182 |
92 |
北西3位 |
不参加
|
2002-03 |
82 |
36 |
26 |
11 |
9 |
231 |
230 |
92 |
北西4位 |
カンファレンス準々決勝敗退 (DAL)
|
2003-04 |
82 |
36 |
29 |
12 |
5 |
221 |
208 |
89 |
北西4位 |
不参加
|
2005-06 |
82 |
41 |
28 |
- |
13 |
256 |
251 |
95 |
北西3位 |
スタンレー・カップ決勝敗退 (CAR)
|
2006-07 |
82 |
32 |
43 |
- |
7 |
195 |
248 |
71 |
北西5位 |
不参加
|
2007-08 |
82 |
41 |
35 |
- |
6 |
235 |
251 |
88 |
北西4位 |
不参加
|
2008-09 |
82 |
38 |
35 |
- |
9 |
234 |
248 |
85 |
北西4位 |
不参加
|
2009-10 |
82 |
27 |
47 |
- |
8 |
214 |
284 |
62 |
北西5位 |
不参加
|
2010–11 |
82 |
25 |
45 |
- |
12 |
193 |
269 |
62 |
北西5位 |
不参加
|
2011–12 |
82 |
32 |
40 |
- |
10 |
212 |
239 |
74 |
北西5位 |
不参加
|
2012–13 |
48 |
19 |
22 |
- |
7 |
45 |
125 |
134 |
北西3位 |
不参加
|
2013–14 |
82 |
29 |
44 |
- |
9 |
67 |
203 |
270 |
太平洋7位 |
不参加
|
2014–15 |
82 |
24 |
44 |
- |
14 |
62 |
198 |
283 |
太平洋6位 |
不参加
|
脚注
外部リンク