オワイン・グリンドゥール (ウェールズ語 : Owain Glyndŵr (ウェールズ語発音: [ˈoʊain ɡlɨ̞nˈduːr] )、Owain Glyn Dŵr、1349年 ないし1359年 ころ – 1415年 ころ)は、ウェールズ人 としては最後にプリンス・オブ・ウェールズ (ウェールズ公:ウェールズ語 : Tywysog Cymru )と称した、ウェールズ の統治者。イングランド によるウェールズ支配 に抵抗する、強烈かつ長期にわたる反乱 を煽動し続けたが、結局のところその試みは失敗に終わった[ 1] 。
日本語における表記は多様であり、オワイン・グリンドゥール [ 2] のほかに、オウエン・グリンドウ [ 3] 、オウェイン・グリルダウル [ 4] 、オーウェン・グリンドゥール [ 5] などが見られる。
概要
グリンドゥールは、父グリフィズ・フィハン2世 (英語版 ) を通して、ポーイス王国 (英語版 ) の王家の血と、ポーイス・ファドッグ (英語版 ) の領主 (Tywysog )、グリンドブルドゥイ (英語版 ) 卿を受け継いでおり、母エレン・ファーハ・トマス・アプ・リウェリン (Elen ferch Tomas ap Llywelyn) を通してデハイバース (英語版 ) の領地や称号も受け継いでいた。
1400年 9月16日 、グリンドゥールは、イングランド王 ヘンリー4世 の支配に対してグリンドゥールの反乱 を起こした。当初、この蜂起は相当にうまく行き、たちまちウェールズのかなり広範囲を支配下に収めるまでになったが、決定的な諸々の弱点、特に、反乱側に大砲がないことで防御を固めた城塞の奪取が困難なこと、艦船を保有していないことで海岸線の防御が脆弱なこと、を抱えていた。蜂起は結局のところ、物量に優るイングランド勢によって圧倒された。グリンドゥールは、1409年 に最後の拠点からも追い落とされたが捕縛は免れ、彼を目撃したとする記録は1412年 を最後に途絶えた。グリンドゥールは、敵方の新王ヘンリー5世 が示した恩赦の意向を、2度にわたって無視し、莫大な報酬まで用意されたにもかかわらず、ウェールズを裏切ってイングランド側に帰順することはなかった。1415年 には、かつての配下が、グリンドゥールの死を記録した。
グリンドゥールは、ウィリアム・シェイクスピア の史劇『ヘンリー四世 第1部 』において、英語化された綴りのオウエン・グレンダワー (Owen Glendower) という名で、魔術と感情に支配された野蛮でエキゾティックな人物として登場する[ 6] 。
その死によって、オワイン・グリンドゥールは、民衆を解放するために呼び返されることを待ち続ける英雄として、カドワラドル (英語版 ) 、カナン (Cynan)、アーサー王 に並ぶ、神話的存在となった[ 7] 。19世紀後半には、カムリ・ファズ (英語版 ) (若きウェールズ)運動が、ウェールズのナショナリズム (英語版 ) の父としてのグリンドゥール像を再創出した。
結婚と家族
オワインは若いうちに、デヴィッド・ハンマー (Sir David Hanmer、1332年-1387年) (英語版 ) の娘でウェールズ語名マレド・ベルッフ・ダヴィズ (Marred ferch Dafydd) として知られているマーガレット・ハンマー (Margaret Hanmer、1370年-1420年) (英語版 ) と結婚した[ 8] 。
オワインの娘のアリス (Alys ferch Owain Glyndŵr) (英語版 ) は、王によりヘレフォードシャー のシェリフ (Sheriff) (英語版 ) に任命されていたジョン・スキューダモア (John Scudamore) (英語版 ) と秘密裏に結婚していた。どういうわけか彼は反乱 を乗り越え、役職を維持していた。オワインは最後はケントチャーチ (Kentchurch) (英語版 ) の彼らの家に匿われていたと言われている。スキューダモアの孫はキッドウェリー (Kidwelly) (英語版 ) のジョン・ダン卿 (Sir John Donne、1420年代-1503年) (英語版 ) で、成功したヨーク朝 の廷臣 (courtier) (英語版 ) 、外交官 、兵士 だった。彼は1485年以降、彼と同じウェールズ人のヘンリー7世 と和解した。ダン家を通じて、多くの有名なイギリスの家系がオワインの子孫となり、その中にはオックスフォード伯爵 位を保有するド・ヴィアー家や、デヴォンシャー公爵 位を持つキャベンディッシュ家 (House of Cavendish) (英語版 ) などが含まれる。
ヤコブ・ユード・ウィリアム・ロイド (Jacob Youde William Lloyd、1816年-1887年) [ 注 1] によると、オワインとマーガレットは5人の息子と4人[ 8] :211 、あるいは5人[ 8] :199 の娘をもうけた。
グリフィズ (Gruffudd、1375年-1412年) (英語版 ) - イギリス軍により捕えられ、ノッティンガム城 に幽閉された後、1410年にロンドン塔 に送られて1412年頃腺ペスト で獄死した。
マドッグ (Madog)
マレディッズ (Maredudd) (英語版 ) - 生年は不明。1421年に恩赦 を受けた。
トマス (Thomas)
ジョン (John)
アリス (Alys) (英語版 ) - ジョン・スキューダモア卿と結婚した[ 9] 。グリンダブルデュウィ (Glyndyfrdwy) (英語版 ) とカンスライス (Cynllaith) (英語版 ) のレディーで、ウェールズ南部のポーイス とグウィネズ の公国 の相続人であった。
ジェーン (Jane)
ジャネット (Janet) - ヘレフォードシャー のクロフト城 (英語版 ) のジョン・ドゥ・クロフト卿と結婚した。
マーガレット (Margaret) - ヘレフォードシャー 、モンニングトン (Monnington) (英語版 ) のリチャード・モンニングトン卿と結婚した。
5人目の娘カトリン (Catrin ferch Owain Glyndŵr、1413年没) (英語版 ) は、ロイドの著作には名前を書かれていないが、他の文献には記録されている。彼女は第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーの息子、エドマンド・モーティマー卿 (Edmund Mortimer、1376年-1409年) と結婚した。
オワインの息子たちは皆捕虜になったか、あるいは戦死しており、誰も子供はいなかった。オワインにはその他に非嫡出子 として、デヴィッド、グウェンシリアン (Gwenllian) 、レイアン (Ieuan) (英語版 ) 、ミヴァンウィー (Myfanwy) がいた[ 8] 。
注釈
脚注
^ "Owain Glyn Dwr (c.1354 – c.1416)", Historic Figures, bbc.co.uk
^ 吉賀憲夫 . “第24回------映画『 ウェールズの山 』のモーガンとジョーンズ師 (2)”. ウェールズ日本人会. 2015年5月17日 閲覧。
^ 吉賀憲夫 . “ウェールズ小史 ”. 吉賀憲夫. 2015年5月17日 閲覧。
^ “1月15日 ”. ウェールズ歴史研究会 (2015年1月15日). 2015年5月17日 閲覧。
^ “ヨーロッパの歴史風景 中世編 西暦1400年、イギリスのウェールズでオーウェン・グリンドゥールの反乱が始まった。 ”. ウェールズ歴史研究会 (2015年1月15日). 2015年5月17日 閲覧。
^ "at my nativity, The front of heaven was full of fiery shapes, Of burning cressets, and at my birth The frame and huge foundation of the earth Shaked like a coward." — Henry IV, Part 1 , Act 3, scene 1
^ Encyclopaedia of Wales 2008 p.635
^ a b c d Lloyd, J (1881).The History of the Princes, the Lords Marcher, and the Ancient Nobility of Powys Fadog . 1. London: T. Richards. pp. 199, 211–219. 2016年8月9日閲覧
^ BBC wales history Owain Glyndwr 2016年8月9日閲覧
参考文献
J.E. Lloyd, Owen Glendower , 1931 classic.
R. Rees Davies , The Revolt of Owain Glyn Dŵr (1995) Oxford University Press ISBN 0-19-285336-8
Geoffrey Hodge, Owain Glyn Dwr: The War of Independence in the Welsh Borders (1995) Logaston Press ISBN 1-873827-24-5
Burke's Peerage & Baronetage, 106th Edition, Charles Mosley Editor-in-Chief, 1999. pp. 714, 1295
Jon Latimer, Deception in War , (2001), John Murray, pp. 12–13.
A. G. Bradley, Owen Glyndwr and the Last Struggle for Welsh Independence. (1901) G. P. PUTNAM’S SONS
外部リンク