アンティオキア公ジョアンの紋章
ジョアン・デ・コインブラ (Infante D. João de Coimbra , 1431年 - 1457年 9月11日 )は、ポルトガル ・アヴィシュ王朝 の王族。ポルトガル王子(Infante de Portugal) 。キプロス王国 の王位継承者・アンティオキア女公 シャルロット との結婚により、アンティオキア公の称号を名乗った。
生涯
ポルトガル王 ジョアン1世 の三男コインブラ公ペドロ と、その妻でウルジェイ 伯ジャウマ2世 (英語版 ) の娘であるエリサベの間の次男として生まれた。父は甥のポルトガル王アフォンソ5世 の摂政を務めたが、妾腹の兄のブラガンサ公アフォンソ に陥れられ、1449年にアルファロベイラの戦い (英語版 ) でポルトガル王軍に敗れて戦死した。ジョアンも父の軍勢に従ったため、捕えられて謀反人として死刑を宣告される。
しかし叔母のブルゴーニュ公爵夫人イザベル の執り成しにより助命され、弟妹たちとともにブルゴーニュ公爵領 へ移住した。ジョアンと弟妹は叔母の夫であるブルゴーニュ公フィリップ3世 (善良公)に庇護され、弟ジャイメ はアラス司教に取り立てられ、妹ベアトリスはフィリップ善良公の甥ラーフェンシュタイン卿 に嫁いだ。ジョアン自身も1456年に金羊毛騎士団 の騎士に叙任されている。
1456年、キプロス王ジャン2世 の一人娘シャルロット と結婚し、同王国の首都ニコシア に婿入りした。新郎は25歳、新婦は12歳だった。同時に、ジョアンは妻がキプロス王位継承者として帯びていたアンティオキア公の称号を使用するようになった。しかし翌1457年、ジョアンは謎の急死を遂げた。死因は姑の王妃エレニ・パレオロギナ による毒殺と噂された。正教徒 のエレニは、カトリック 信徒であるジョアンがキプロス島 内の親カトリック・親ラテン派の人々を支援したことを苦々しく思っていたためだとされる。
遺骸はニコシアのフランシスコ会 の教会に葬られた。シャルロットは1459年、ジュネーヴ伯ルイ・ド・サヴォワ と再婚している。
参考文献
歴代のアンティオキア公 (1098–1268) 名目上のアンティオキア公 (1268–1457)
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