ディオン・フォーチュンとも表記される。本名はヴァイオレット・メアリー・ファース (Violet Mary Firth)。内輪の取り巻き連からはDFと呼ばれていた。筆名のダイアン・フォーチュンは自身の魔法名(英語版)である Deo Non Fortuna を縮めた名で、生家のファース家の紋章に刻まれた銘も "Deo, non-fortuna" (ラテン語で「運ではなく神によって」)であった[註 1][2]。
フォーチュンはアリマタヤのヨセフと聖杯の伝説の地であるグラストンベリーに惹きつけられ、1921年、グラストンベリーでフレデリック・ブライ・ボンド (Frederick Bligh Bond, 1864-1945) とトランス霊媒活動を行った[9]。ボンドは霊媒を介した霊による導きでグラストンベリー修道院跡を発掘調査したという考古学者であった。1922年には、グラストンベリーで出会ってフォーチュンの仲間となったオカルティスト、チャールズ・T・ラヴデイ (Charles T Loveday, 1874-1946) とともに一連の「内的領域」での作業を行い、その成果は後の内光友愛会の教義に発展した[6]。この頃フォーチュンはモリアーティのグループにいた数名とロンドンの神智学協会の数名とともに自身のグループを結成し[5]、1924年に6人のメンバーで内光友愛会(英語版) (the Fraternity of the Inner Light) が発足した[6](当初の名称は the Community of the Inner Light[9])。かれらはグラストンベリー・トーのふもとの古い士官舎を購入し、ロンドンのベイズウォーター近辺でも古い邸宅を入手し、前者はチャリス・オーチャード、後者は3QTという同会の本部となった[5]。以後、この友愛会はフォーチュンのライフワークの中心となった。フォーチュンはA∴O∴とは別のG∴D∴分派である暁の星(英語版)のヘルメス・ロッジにも参入し、フォーチュンの率いるロッジは暁の星の残存テンプルと友好関係を保ちながら活動していた。フォーチュンは1925年に「神智学協会のキリスト教神秘主義ロッジ」の総代となるが[9]、1927年に同ロッジを脱退すると多くのロッジ・メンバーが内光友愛会に移籍した[14][註 6]。内光友愛会はオカルト・レヴュー誌に掲載されたフォーチュンの記事によるとモイナ・マザーズの承諾を得て設立された黄金の夜明けの外郭団体であり[15][16]、A∴O∴に新たな会員を供給した[17]。しかしながら、フォーチュンは当初モイナ・マザーズと平穏な関係を保っていたかに見えたが、1924年に出版されたフォーチュンの著書『愛と結婚の秘教哲学』やオカルト・レヴュー誌の連載『健全なオカルティズム』等の内容をめぐり両者間の確執は顕著になっていた[18]。フォーチュンはこの頃モイナから魔術的な攻撃を受けていると確信し[3][19]、その体験を著書『心霊的自己防衛』(1930年)の中で述懐した。この衝突の結果、フォーチュンは1927年にA∴O∴から追放されることになる。フォーチュンがペンリー・エヴァンズと結婚したこの1927年をもって内光友愛会の創立年とする場合もある[20]。フォーチュンの死後、内光友愛会は改名して「内光協会」 (the Society of the Inner Light) となった。