ダヴィド・ツヴィ・ピンカス(ヘブライ語: דוד צבי פנקס, 1895年12月5日 - 1952年8月14日)は、イスラエルの政治家。
同国第3代運輸大臣を務めた。
経歴
オーストリア=ハンガリー帝国、ショプロンにて誕生する。ピンカスはウィーンの高校を卒業後、フライブルク・イム・ブライスガウのイェシーバーにて学び、ウィーン大学で法学を学んだ。1923年に第13回シオニスト会議の代表となり、2年後にはイギリス委任統治領パレスチナに移住した。
1932年にミズラヒ・テファホット銀行(英語版)理事に就任、同年にはテルアビブ市議会議員に選出された。また、1944年に代表院議員に選出、1947年から1949年までユダヤ民族評議会(英語版)の理事を務めた。
イスラエル独立宣言に署名したピンカスは、ミズラヒ(英語版)が単独で出馬した1951年の議会選挙にて議席を維持したが、同党は2議席しか獲得できなかった。同年10月8日には運輸大臣に任命され、安息日に公共交通機関の運行を停止した。
1952年6月、アモス・ケナン(英語版)とシャルティエル・ベン・エアがピンカス宅の玄関先に爆弾を置き[1]、ピンカスは怪我することなく暗殺は未遂に終わったが、2か月後に心臓発作により死去した。遺体はトルンペルドール墓地(英語版)に埋葬された。
脚注