テンプル・スタンヤン (英語 : Temple Stanyan FRS [ 注釈 1] 、1675年 2月8日 – 1752年 3月25日 )は、グレートブリテン王国 の政治家、作家。18世紀末までギリシャ史を学ぶ者の必読書となった著作『ギリシャ史』(Grecian History, from the Original of Greece, to the Death of Philip of Macedon 、1707年初版、1739年第2版)で知られる[ 2] 。兄に外交官エイブラハム・スタンヤン がいる[ 3] 。
生涯
生い立ち
ローレンス・スタンヤン(Lawrence Stanyan 、1725年没、商人・農家)とドロシー・ナップ(Dorothy Knapp 、1730年没、ヘンリー・ナップの娘)の五男として、1675年2月8日にミドルセックス のモンケン・ハッドリー (英語版 ) で生まれた[ 2] 。「テンプル」という名前は母の姉妹の夫にあたる第3代準男爵サー・リチャード・テンプル (英語版 ) に由来するとされる[ 2] 。1691年にクイーンズ・スカラ (英語版 ) としてウェストミンスター・スクール に入学[ 3] 、1695年6月18日にオックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学したが、学位を修得しなかった[ 4] 。
1697年にリチャード・テンプルが死去すると、スタンヤンはオックスフォードシャー にあるウッドコート (英語版 ) (ローリンズ(Rawlins )とも)の邸宅を継承した[ 5] 。
政治家として
1697年11月には兄エイブラハム がテンプルを国務大臣秘書官に就かせようとしており、1715年までに成功したとされる[ 2] 。
1715年10月15日に北部省 (英語版 ) 政務次官 に任命され、1717年4月20日に南部省 (英語版 ) 政務次官に転じ[ 3] 、1718年に解任されたが、以降も少なくとも1721年まで(当時の慣習通りに)外国駐在大使館からの文通を受け続けた[ 2] 。1719年2月5日、兄エイブラハムの後任として枢密院秘書官 (英語版 ) の1人に就任した[ 3] 。その後、1724年から1735年まで南部省政務次官を再任した[ 2] 。
著述業
1707年にGrecian History, from the Original of Greece, to the Death of Philip of Macedon (ギリシャの起源からピリッポス2世 の死去までのギリシャ史に関する著作。下記では『ギリシャ史』と表記)の初版を著し[ 3] 、ジェイコブ・トンソン (英語版 ) により出版された[ 6] 。1739年に内容を拡充して再版した(ロンドン 、八折り判 、2巻)後[ 2] [ 3] 、ドゥニ・ディドロ によるフランス語 訳(1743年、パリ 、十二折り判、3巻)が出版された[ 3] 。
『ギリシャ史』は出版から数十年間の間ギリシャ史を学ぶ者の必読書になり[ 2] 、それが揺らぐのはウィリアム・ミットフォード (英語版 ) の『ギリシャ史』(1784年から1810年にかけての出版[ 7] )が出版されてからのことだった[ 3] 。
1726年5月12日、フランシス・ニコルソン の推薦で王立協会フェロー に選出された[ 1] 。
文人のジョゼフ・アディソン とは親しい友人であり、アディソンのお世辞嫌いな性格に関するアネクドート には下記のものがある[ 8] 。スタンヤンとアディソンは腹を割って話せる仲だったが、あるとき急にまとまった金が必要なスタンヤンはアディソンに借金した。すると、スタンヤンはそれまでの態度と違い、アディソンの言葉に反論しなくなった。そして、2人が直前に議論した問題が再び話題に上がると、スタンヤンは沈黙して、アディソンの主張に反論しなかった。アディソンは不機嫌になり、「私〔の言葉 〕に反論するか、金を返して」(Sir, either contradict me or pay me my money )と苛立って言ったという[ 8] 。
ギリシャ史以外では1735年にグリニッジ病院 のジョージ2世 像のラテン語 銘文を書いた[ 3] 。
死去
1752年3月25日にオックスフォードシャー のローリンズ (英語版 ) (Rawlins )にある自邸で死去した[ 2] 。死後、未亡人グレースがローリンズの邸宅を継承し、1768年にグレースが死去するとスタンヤンとの間の娘キャサリンが継承したが、1787年に売却された[ 5] 。
家族
1人目の妻はエリザベス・ボイス(Elizabeth Boys 、旧姓シャーリー(Shirley ))だった[ 2] 。1721年1月3日にスザンナ・ホッブス(Susannah Hobbs 、1689年洗礼 – 1725年3月23日)と再婚したが、2人に子供はおらず[ 2] 、1726年4月28日にグレース・ポーンスフォート(Grace Pauncefort 、1692年/1693年 – 1768年6月10日、グリムボールド・ポーンスフォートの娘)と再婚して、1女をもうけた[ 2] [ 3] 。
注釈
出典
^ a b c "Stanyan; Temple (c 1677 - 1752)" . Record (英語). The Royal Society . 2020年10月10日閲覧 。
^ a b c d e f g h i j k l m Woodfine, Philip; Gapper, Claire (10 January 2013) [2004]. "Stanyan, Abraham". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/26291 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ a b c d e f g h i j k l Seccombe, Thomas (1898). "Stanyan, Abraham" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 54. London: Smith, Elder & Co . pp. 87–88.
^ Foster, Joseph , ed. (1891). "Spackman-Stepney" . Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語). Oxford: University of Oxford. pp. 1394–1422.
^ a b Lobel, Mary, ed. (1962). "Parishes: South Stoke" . A History of the County (英語). Vol. 7. London: Victoria County History. pp. 93–112. British History Onlineより2020年10月10日閲覧 。
^ "Full Record: The Grecian History. Volume the first. Containing the space of about 1684 years. By Temple Stanyan. Adorn'd with cuts" . English Short Title Catalogue (英語). British Library. OCLC 181835432 . 2020年10月10日閲覧 。
^ Wroth, Warwick William (1894). "Mitford, William" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 38. London: Smith, Elder & Co . pp. 86–87.
^ a b Caulfield, James (1821). Memoirs of the Celebrated Persons composing the Kit-Cat Club; with a prefatory account of the origin of the association (英語). Hurst, Robinson & Company. p. 193.
^ Drummond, Mary M. (1964). "HARDY, Sir Charles (c.1714-80)." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月10日閲覧 。
外部リンク