1806年から1945年までのバーデンの地図
バーデン大公国邦有鉄道 (バーデンたいこうこくほうゆうてつどう、ドイツ語 : Großherzoglich Badische Staatseisenbahnen 、略称G.Bad.St.E.)は、1840年に設立されたバーデン大公国 の国有鉄道 である。日本語 ではバーデン国鉄 、バーデン官有鉄道 などとも呼ばれる。
ドイツ では、1871年にプロイセン王国 ・バイエルン王国 ・ザクセン王国 ・バーデン大公国・ヴュルテンベルク などのドイツ語圏の多くの領邦 からドイツ帝国 が成立したが、それ以前に多くの領邦は独自に鉄道を有していた。各領邦の鉄道は、次第に運営上の協力を深めてはいったが、ドイツ帝国成立後も第一次世界大戦 後までそれぞれに独立したまま運営された。
1920年にドイツ国営鉄道 へ統合された時点で、路線長の合計は約2,000 km に達していた。
歴史
設立
鉄道建設資金を調達するために1845年から1849年にかけて発行された、バーデン大公国の割増金つき債券
バーデン大公国は、ドイツの領邦の中ではブラウンシュヴァイク公国 に次いで2番目に国家予算で鉄道を建設し運営した。1833年にマンハイム の事業家、ルートヴィヒ・ニューハウス (Ludwig Newhouse) がマンハイムからバーゼル までの鉄道を建設する提案を初めて提出した。しかし当初はバーデン大公国政府からの支援は得られなかった。フリードリッヒ・リスト によるものなど、他の鉄道建設提案もやはり当初は受け入れられなかった。隣接するフランス 領アルザス において1837年にバーゼルからストラスブール (シュトラースブルク)までの鉄道を建設する会社が設立されて初めて、通商路をめぐる競争でアルザスに敗れるのを避けるために、バーデンにおいて鉄道を建設する真剣な検討が開始された。1838年3月29日にバーデンの議会の臨時会において、最初の路線であるマンハイムからバーゼル付近のスイス 国境まで、そしてバーデン=バーデン へとストラスブールへの支線を建設するための3本の法律が制定された。主にカール・フリードリッヒ・ネベニウス (ドイツ語版 ) の主張により、この鉄道の建設には政府が資金を出すことになった。1838年9月に建設に着手した。
鉄道の建設には内務省が責任を負っており、この目的のために鉄道建設局を内務省内に設置した。後にこの鉄道建設局は水・道路建設局へ統合された。一方で鉄道の運営に関しては対照的なことに外務省が責任を負っていた。これは郵便運営部門が外務省に置かれていたためで、これ以降郵便・鉄道局となった。1872年にバーデンの郵便部門が帝国郵便 (ライヒスポスト)へ統合されたのち、バーデン大公国邦有鉄道として独立した鉄道部門が設置された。
幹線網の建設
ハイデルベルク駅からの列車の出発、1840年
最初の路線はバーデン本線 と呼ばれ、1840年から1863年にかけて順次開通した。マンハイムからハイデルベルク までの最初の18.5 kmの区間は1840年9月12日に運行を開始した。その後カールスルーエ まで1843年に、オッフェンブルク まで1844年に、フライブルク まで1845年に、シュリーンゲン (ドイツ語版 ) まで1847年に、エフリンゲン=キルヒェン (ドイツ語版 ) まで1848年に、そしてハルティンゲン (ドイツ語版 ) まで1851年に開通した。ケール およびバーデン=バーデンへの支線はそれぞれ1844年と1845年に開通した。本線をバーゼルまで延長するにはスイス政府との交渉が必要となり、バーデンからの路線をスイスの鉄道網に接続するのはバーゼルがよいか、ヴァルツフートがよいかで議論になっていたため、いくらか遅れることになった。
コンスタンツ駅、かつてのバーデン大公国邦有鉄道の駅に典型的な細い時計塔が残る
1852年7月27日の条約により合意が成立し、スイス領内にバーデン大公国邦有鉄道が路線を建設し運行することができるようになった。
バーデンの鉄道は当初、5フィート 3インチ (1,600 mm 、通称アイリッシュゲージ)軌間 で建設されていた。これは広軌 のほうが車両を大きくでき、強力な機関車 を用いることができるというネベリウスの主張によるものである。当時周辺国では標準軌 による鉄道の建設が始まっていたが、バーデンは交通網の要衝に位置するため、隣接国もいずれバーデンと同じ軌間を選ぶであろうと考えられていた。しかしこの思惑は外れ、隣接国すべてが標準軌を選択したことから、バーデン大公国邦有鉄道は1854年から1855年にかけて1年かからずにすべての路線を標準軌に改軌した[ 1] 。
バーデンの鉄道は、1855年にバーゼルに到達し、その後ヴァルツフート (ドイツ語版 ) へ1856年に、コンスタンツ に1863年に到達した。これにより全長414.3 kmのバーデン本線が完成した。重要な南北軸で、またコンスタンツ湖 地区への連絡も行うバーデン本線の完成後は、鉄道網拡大計画の続きとしてプフォルツハイム地方へカールスルーエ - プフォルツハイム - ミュールアッカー (ドイツ語版 ) 方面(1859年から1863年にかけて開通)、オーデンヴァルト、タウバーフランケン地方への連絡路線となるオーデンヴァルト線 (ハイデルベルク - モースバッハ - ヴュルツブルク 、1862年から1866年にかけて開通)、カールスルーエからコンスタンツへバーゼルを迂回せずに直結するシュヴァルツヴァルト線 (1866年から1873年にかけて開通)などが進められていった。
隣接国への連絡
1870年時点でのバーデンにおける鉄道網計画
バーデン本線の建設中でも、既にスイスの鉄道網との接続計画が策定されていた。これはヴァルツフートでライン川 にかかるロベルト・ゲルヴィヒ (ドイツ語版 ) の手による鉄道橋 が1859年8月18日に開通したことで実現した。さらに1863年にはシャフハウゼン で、1871年にはコンスタンツで、1875年にはジンゲン (ドイツ語版 ) でも接続された。ライン川の東岸にあるバーデン大公国邦有鉄道側のバーゼル・バーディッシャー駅 と、ライン川の西岸にあるバーゼル中央駅 を結ぶバーゼル連絡線 (ドイツ語版 ) は1873年に開通した。こんにちではこの路線は、ドイツとスイスを結ぶもっとも重要な接続路線となっている。
北方のヴァインハイム - ダルムシュタット - フランクフルト・アム・マイン 方面への連絡は、バーデン大公国邦有鉄道も運営に参画するマイン-ネッカー線 によって1846年に実現した。1879年にはリート線 も開通したが、バーデン大公国邦有鉄道はこの路線については保有していなかった。
1861年には、ケールとストラスブールの間でライン川に架かる橋が完成して、フランス とも直接結ばれた。プファルツ地方 への開通は1865年にカールスルーエとマックスアウの間の舟橋を利用して実現し、またマンハイムとルートヴィヒスハーフェン の間も1867年に開通した。バイエルン王国 との接続も、オーデンヴァルト線 の開通により1866年に実現した。
ヴュルテンベルク とは、ドイツとアルプス山脈 の峠を結ぶ交通需要の誘致を争っていた関係で、双方を結ぶ路線の交渉はとても難航することになった。バーデン側はプフォルツハイムを経由する路線を望んだのに対して、ヴュルテンベルクはより直接的にブルッフザール へ通じる路線を望んだ。1850年12月4日の条約により最終的に、ヴュルテンベルクはシュトゥットガルト - ミュールアッカー - ブレッテン (ドイツ語版 ) - ブルッフザールを直接結ぶヴュルテンベルク西線 をバーデン領内でも建設する権利を得る一方で、バーデンは一部でヴュルテンベルク領内を通過するカールスルーエ - ミュールアッカー線 の建設と運行を認められることになった。ブルッフザールへの連絡は1853年に開通した。
さらなる拡張
南部バーデンおよびドナウ川流域における1887年から1890年にかけての戦略路線の建設
以降のバーデン大公国邦有鉄道網の拡張は、地域の開発を目指したものか、あるいは軍事的な見地から実行された。主なものとしては以下のようなものがある。
1895年には、一部の短区間を除いてバーデンの鉄道網はほぼ完成に達した。1900年にはバーデン領内に1,996 kmの路線があり、このうち1,521 kmを邦有鉄道が所有していた。その後は、鉄道網の核となっている駅 の拡張工事に主な努力が費やされた。大きな改造としては以下のようなものがある。
カールスルーエの新操車場 、1895年
ラシュタットにおける新駅、1895年
フライブルクにおける新しい貨物バイパス線、1905年
バーゼルの新しい貨物駅、1905年
ブルッフザールの新しい貨物バイパス線、1906年
マンハイムの新操車場、1906年から1907年
オッフェンブルクの新駅・操車場、1911年
バーゼル・バーディッシャー駅の新駅、北のヴァイル・アム・ラインに付属する操車場を含む、1913年
カールスルーエの新しい中央駅、1913年
ハイデルベルクの新しい操車場および貨物駅、1914年
新しく建設中であったハイデルベルク中央駅 は、第一次世界大戦 の勃発のため完成に漕ぎ着けられなかった。完成するのは1955年を待つことになる。
邦有鉄道により営業される私鉄
バーデンにおける路線の中には私有企業によって建設されたものもあったが、邦有鉄道によって運行されており、ほとんどの場合は後に買収された。1862年に開通したヴィーゼンタール線 (ドイツ語版 ) (バーゼル - ショプフハイム (ドイツ語版 ) - ツェル・イム・ヴィーゼンタール (ドイツ語版 ) )のような、地域的な重要性しかない支線に限らず、主要路線でもそうした例があった。鉄道路線がなく鉄道網へのより良い連絡を望んでいた町による運動だけではなく、大きな都市でも周辺地域を開発して交通の核としての地位を強化しようとしてこうした鉄道路線の建設にかかわるものがあった。たとえばマンハイムは、北へ通じるマイン-ネッカー線の開通によりバーデンの幹線がフリードリヒスフェルト(マンハイムの一部)とハイデルベルクの両方でマイン-ネッカー線と接続するようになって以来、交通網の中心から外れてしまっていたことから脱却するために、ハイデルベルクを経由せずにカールスルーエへ直接到達できる路線を推進しようとした。これに対抗して、ハイデルベルクは交通の核としての重要性を確実にするためにハイデルベルク - シュヴェツィンゲン - シュパイアー 線の建設を推進した。
私有企業が建設し、邦有鉄道によって運行された鉄道の中で、重要なものとしては以下のようなものがある。
マックスアウ線 (ドイツ語版 ) - カールスルーエ近郊にカールスルーエ市政府によって建設され、1862年に開通した。バーデンの鉄道網とプファルツ地方を結ぶ最初の鉄道であった。1906年に国有化 された。
ライン線 - マンハイム - シュヴェツィンゲン - グラーベン=ノイドルフ - エッゲンシュタイン (ドイツ語版 ) - カールスルーエ、マンハイム市政府によって建設され、1870年に開通して開通日にバーデン邦有鉄道によって買収された。
クライヒガウ線 (ドイツ語版 ) - カールスルーエ - ブレッテン - エッピンゲン およびそこからハイルブロン への延長、カールスルーエ市政府によって建設され、1879年に開通して開通日にバーデン邦有鉄道によって買収された。
ドイツ国営鉄道への合併
1945年以前にバーデンにおいて建設された鉄道網
1920年4月1日付でドイツ国営鉄道 (ドイツ国鉄)が発足し、バーデン大公国邦有鉄道もこれに統合された。カールスルーエにあった本社事務所はカールスルーエ鉄道局となった。国鉄の発足により、バーデンの路線建設計画はキャンセルされることになり、以降は4本の新線のみが建設された。
ブレッテンからキュルンバッハ (ドイツ語版 ) までの路線(およびレオンブロンにおけるツァーベルゴイ線 (ドイツ語版 ) との接続を視野に入れていた)の建設工事は着手されたが、完成することはなかった。
電気鉄道の運転
バーデン大公国邦有鉄道は、ヴィーゼンタール線のバーゼル - ツェル・イム・ヴィーゼンタール間およびその支線であるショプフハイム - バート・ゼッキンゲン (ドイツ語版 ) 間において1913年9月13日から、交流 15 kV 16 2/3 Hz 電化 による電気鉄道 の運転を開始した。試作のA¹型電気機関車 に続いて、11両のA²型およびA³型(のちにドイツ国鉄E61型となる)が導入された。これらはすべて、サイドロッド駆動式の3動軸機であった。ヴィーゼンタール線の電化は主として電気鉄道の試験目的で行われ、輸送上は特に大きな意味を持っていなかった。第一次世界大戦 後は深刻な経済状況から電気運転のさらなる拡大は行われず、バーデンの鉄道網の電化が大きく進展するのは1952年以降のことになった。
路線
バーデン大公国邦有鉄道の路線の開通状況は以下の通りである。
¹ 国境を越える路線については、バーデン邦有鉄道に属する区間についてのみ記載した。バーゼル連絡線は、スイス中央鉄道とバーデン邦有鉄道が共同で出資して建設された。ヘレンタール線の計画区間であったドナウエッシンゲン - ヒューフィンゲン間は政府の予算で建設されたが、当初はブレグタール線 (ドイツ語版 ) の区間として私鉄として運営・管理されていた。ヘレンタール線が1901年に開業した後、この区間の管理はバーデン邦有鉄道に引き継がれ、共同運行が開始された。
邦有鉄道が運行していた私鉄
1899年1月1日にバーデン地方鉄道による運行となったエットリンゲン西 - エットリンゲン・シュタットの区間を除き、邦有鉄道が運行していたこれらの私鉄は後にすべて国有化された。
唯一建設された狭軌 の路線である、モースバッハからムーダウまでの区間(1905年6月3日開業)については特殊な方式があった。民間企業のフェリンク・ウント・ヴェヒターが契約を結んで、この路線を建設し運行していた。
バーデン邦有鉄道が運行していたこれらの路線以外にも、1889年以降に建設された完全な私鉄もあった。
ドイツ国営鉄道は、バーデンの鉄道網に以下の路線網を1945年までに完成させた。
また、外国の国有鉄道でバーデン領内に建設されたものがいくつかあった。ブレッテン-ブルッフザール間は1878年にバーデン邦有鉄道に移管された。
鉄道車両
バーデン邦有鉄道向けの最初の2両の蒸気機関車 は、イギリス のシャープ・ロバーツ によって製造され、1839年に納入された。この2両はレーヴェ(ライオン )とグライフ(グリフォン )と名付けられた。鉄道網が拡張されるにつれて、鉄道車両も急速に増備されていった。1854年から1855年にかけて、広軌から標準軌に改軌した時点で、66両の機関車、65両のタンク機関車 、1,133両の貨車があった。第一次世界大戦 終結時点では、915両の機関車、27,600両の貨車、2,500両の客車が在籍していたが、ヴェルサイユ条約 に基づく連合国に対する戦後賠償として、106両の機関車、7,307両の貨車、400両の客車が引き渡された。バーデンの機関車の一覧は、Liste der badischen Lokomotiven und Triebwagen (バーデンの機関車と動車の一覧)を参照。
バーデン邦有鉄道は、地元の会社から車両を購入することを好み、バーデンの鉄道車両工業の成長に貢献した。エミール・ケスラー (ドイツ語版 ) (のちにエスリンゲン (ドイツ語版 ) を設立する)の工場やカールスルーエのマルティエンゼンの工場で、後者はのちにカールスルーエ機械製造 (ドイツ語版 ) となった。また1862年にハイデルベルクに設立されたフックス車両製造 (ドイツ語版 ) と、1897年にラシュタットに設立されたラシュタット車両製造 (ドイツ語版 ) という2つの客車メーカーも発展した。
注釈
参考文献
Karl Müller, Die badischen Eisenbahnen in historisch-statistischer Darstellung . Heidelberger Verlagsanstalt und Druckerei, Heidelberg 1904 (Online-Version)
Albert Kuntzemüller, Die Badischen Eisenbahnen . Verlag G. Braun, Karlsruhe 1953
Wolfgang von Hippel, Joachim Stephan, Peter Gleiber, Hans-Jürgen Enzweiler, Eisenbahn-Fieber: Badens Aufbruch ins Eisenbahnzeitalter . Verlag Regionalkultur, 1990
Fridolin Schell, 110 Jahre Eisenbahndirektion Karlsruhe . Eisenbahn-Kurier Verlag, 1982
小池滋 ; 青木栄一 ; 和久田康雄, eds. (2010), 鉄道の世界史 , 悠書館, ISBN 978-4-903487-32-8
松永和生, “ドイツ・オーストリア”, pp. 49-94
外部リンク