ビム・ヤンセン
ヴィルヘルム・マリヌス・アントニウス・ヤンセン(Wilhelm Marinus Anthonius Jansen、1946年10月28日 - 2022年1月25日)は、オランダ・ロッテルダム出身[1] の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。 来歴現役時代1974年リヌス・ミケルスに率いられたオランダ代表でトータルフットボールを体現した一人。 現役時代は守備的なミッドフィールダー、あるいはリベロとして活躍した。 1965年、地元のクラブであるエールディヴィジのフェイエノールトと契約しMFとしてヴィレム・ファン・ハネヘムやフランツ・ハジルらとプレー、4度のリーグ・1度のKNVBカップ優勝、1969年-1970年シーズンのチャンピオンズカップ、1970年インターコンチネンタルカップ、1973年-1974年シーズンのUEFAカップ制覇に貢献した[1][2][3]。 また代表では、1967年10月4日欧州選手権予選デンマーク代表戦(コペンハーゲン)で代表デビュー、以来65試合に出場。1974 FIFAワールドカップと1978 FIFAワールドカップの2度のW杯決勝進出に貢献した[3]。 1980年、北米サッカーリーグのワシントン・ディプロマッツへ移籍、ヨハン・クライフらとプレーしている[2][3]。同年12月にはオランダに戻りアヤックス・アムステルダムでプレーし1度のリーグ優勝に貢献し1982年に引退した[2][3]。 引退後引退後はフェイエノールトに戻り指導者として、1987年からベルギー1部のK.S.C.ロケレン監督として活躍[3]。その後エールステ・ディヴィジのスヒーダムVV(現在のFCドルトレヒト)でテクニカルディレクターに就任した。 1990年から1993年まで古巣フェイエノールトでテクニカルディレクターを務めた。その期間中、1991年成績不振によるギュンター・ベングソン監督解任、1992年ハンス・ドルジ監督の体調不良に伴い、2度暫定でフェイエノールト監督を務めている。1992年KNVBカップ優勝監督[1]。 1994年、レオ・ベーンハッカー監督の下、サウジアラビア代表アシスタントコーチとして活躍した[3]。 1995年、ハンス・オフトの紹介[4] でJリーグ・サンフレッチェ広島監督に就任する[5]。前年サントリーステージで優勝し4-4-2で戦っていたチームを、オランダ型3-4-3に変えトータルフットボールを目指すものの、あまりにも戦術を変えすぎたためチームが付いていかずリーグ戦では低迷した。が、天皇杯では面目躍如し、2年連続で決勝へ進出させている[6][7]。 1997年、スコティッシュ・プレミアリーグのセルティック監督に就任。ライバルチームであるグラスゴー・レンジャーズFCの10連覇を阻み、セルティックに久しぶりにリーグ戦優勝をもたらした[2][3]。同年スコットランド最優秀監督賞に輝く。しかしファーガス・マッキャン球団取締役との軋轢により1シーズンで同チームを退団する[8]。 2002年、ハンス・オフトがJリーグ・浦和レッドダイヤモンズ監督に就任したのに伴いアシスタントコーチを務めた[9]。 その後はオランダに戻り2005年からフェイエノールトでテクニカルアドバイザーを務めている[10]。2008年にヘルトヤン・フェルベーク監督就任に伴い、アシスタントコーチを兼務する[11] も、チーム成績悪化からフェルベークは解任されるとテクニカル・ディレクターのピーター・ボスと共に連帯で辞任した[12]。 2011年8月、その経験を買われフェイエノールトの育成スーパーバイザーとして復帰した[13]。 2021年10月に発行された自著内で認知症であることを公表。 2022年1月25日、死去。75歳没。訃報は同日、フェイエノールトの公式ホームページ上で発表された[14][15]。 代表歴試合数
監督成績
タイトル選手時代
指導者時代
ギャラリー
脚注
参考資料
外部リンク
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