第13代ノーフォーク公爵ヘンリー・チャールズ・ハワード(英: Henry Charles Howard, 13th Duke of Norfolk, KG, PC、1791年8月12日 - 1856年2月18日)は、イギリスの貴族、政治家。
父が爵位を継承した1815年から自身が爵位を継承する1842年までアランデル・サリー伯爵の儀礼称号を使用した。
経歴
1791年8月12日、後に第12代ノーフォーク公爵を継承するバーナード・ハワードとその妻エリザベス(第2代フォーコンバーグ伯爵(英語版)ヘンリー・ベラシズ(英語版)の娘)としてハノーヴァー・スクウェア(英語版)のジョージ・ストリートに生まれる[2]。彼の両親は1794年に離婚した[2]。
1829年から1832年にかけてホーシャム選挙区(英語版)から選出されて庶民院議員になる。ついで1832年から1841年にかけてウェスト・サセックス選挙区(英語版)から選出される。忠実なホイッグ党議員であった[2]。
1837年7月から1841年6月にかけて第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム内閣の王室家計長官(英語版)を務めた[2]。また枢密顧問官に列した[2]。
1841年8月には繰上勅書で第21代マルトレイヴァース男爵として貴族院入りした,[3][2]。同年7月から9月にかけて女王警護ヨーマン隊長(貴族院与党院内副幹事長)を務めた[2]。
1842年3月16日に父の死去により第13代ノーフォーク公爵を継承した[2]。
1846年7月から1852年2月まで第一次ジョン・ラッセル卿内閣の主馬頭を務めた[2]。1851年にホイッグ党首相ジョン・ラッセル卿の主導で制定された反カトリック的な聖職者称号法(英語版)を支持したことで、カトリック教会と敵対することになり、彼がカトリックであるのはほとんど名目上のこととなった。しかし死の直前にカトリック教会と和解したという[2]。
1853年1月から1854年1月にかけては第4代アバディーン伯爵(英語版)ジョージ・ハミルトン=ゴードン内閣で王室家政長官(英語版)を務めた[2]。
1856年2月18日にアランデル城において死去した[2]。ノーフォーク公爵位は長男ヘンリーが継承した。また次男エドワード(英語版)は後にグロソップのハワード男爵に叙された。
栄典
爵位
1841年8月16日の繰上勅書により父の保有爵位のうち以下の爵位を継承[4][5]。
1842年3月16日に父バーナード・ハワードの死去により以下の爵位を継承[4][5]。
- 第13代ノーフォーク公爵 (13th Duke of Norfolk)
- (1483年6月28日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第31代アランデル伯爵 (31st Earl of Arundel)
- (1138年頃創設のイングランド貴族爵位)
- 第14代サリー伯爵 (14th Earl of Surrey)
- (1483年6月28日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第11代ノーフォーク伯爵 (11th Earl of Norfolk)
- (1644年6月6日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第11代フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵 (11th Baron FitzAlan, Clun and Oswaldestre)
- (1627年の議会法によるイングランド貴族爵位)
勲章
名誉職その他
家族
1814年、シャーロット・ルーソン=ゴア(英語版)(初代サザーランド公爵ジョージ・ルーソン=ゴアの娘)と結婚し、彼女との間に以下の5子を儲けた[4]。
脚注
注釈
出典
参考文献
外部リンク