初代ブラッドフォード男爵 ヘンリー・ブリッジマン (英語 : Henry Bridgeman, 1st Baron Bradford 、1725年 9月7日 – 1800年 6月5日 )は、グレートブリテン王国 の政治家、貴族。1748年から1794年まで庶民院 議員を務めたが、46年間にわたる議員生涯において、議会で発言したのは1770年3月に動議に賛成したときの1回だけだった[ 1] 。
生涯
生い立ち
第4代準男爵サー・オーランド・ブリッジマン と妻アン(Anne 、旧姓ニューポート(Newport )、1752年8月19日没、第2代ブラッドフォード伯爵リチャード・ニューポート (英語版 ) の娘)の次男(長男ジョンは早世[ 2] )として、1725年9月7日に生まれた[ 3] 。1744年5月5日にケンブリッジ大学 クイーンズ・カレッジ (英語版 ) に、同年7月6日にリンカーン法曹院 に入学、1747年にクイーンズ・カレッジでM.A. の学位を修得した[ 4] 。
ポウィス伯爵の追随者として
1748年12月、初代ポウィス伯爵ヘンリー・アーサー・ハーバート (英語版 ) の支持を受けてラッドロー選挙区 (英語版 ) の補欠選挙に出馬、無投票で当選した[ 5] [ 6] 。議会ではシュロップシャー 出身のホイッグ党 員としてポウィス伯爵に追随[ 5] 、1754年 と1761年 の総選挙でポウィス伯爵の支持を受けて再選した[ 1] [ 7] 。
1756年2月23日に初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリス の助力により王太子家の書記官(Clerk of the Household to the Prince of Wales )に任命され[ 1] 、1760年10月25日に王太子がジョージ3世 として国王に即位すると退任した[ 8] 。1761年3月17日にClerk Comptroller of the Green Cloth に任命された後、1762年12月24日にSecond Clerk of the Green Cloth に転じ、1764年4月18日までに解任された[ 9] 。1762年4月18日に母方のおじにあたる第4代ブラッドフォード伯爵トマス・ニューポート (英語版 ) が死去すると、ウェストン (英語版 ) の地所を継承した[ 3] 。
ホイッグ党員として
トーリー党 内閣であるビュート伯爵内閣 期(1762年 – 1763年)にポウィス伯爵が野党から与党に転じると、ブリッジマンも1762年12月には七年戦争 の予備講和条約を支持したとされた[ 1] 。しかし、グレンヴィル内閣 期(1763年 – 1765年)には再び野党に転じ、1763年秋から1764年2月にかけて数回野党に同調して投票したため、宮廷職を解任された[ 1] 。1764年7月25日に父が死去すると、準男爵 位とキャッスル・ブロミッチ (英語版 ) の地所を継承した[ 2] 。第1次ロッキンガム侯爵内閣 期(1765年 – 1766年)には与党に所属したとされ、チャタム伯爵内閣 期(1766年 – 1768年)ではチャタム伯爵 派とロッキンガム侯爵 派が決裂したときもニューカッスル公爵に辞任しないよう説得した[ 1] 。
1766年春にシュロップシャー選挙区 (英語版 ) 選出の議員リチャード・リスター (英語版 ) が重病に陥ると、ブリッジマンはロバート・モア (英語版 ) 、トマス・ウィットモア (英語版 ) 、ブルック・フォレスター (英語版 ) (3人ともにシュロップシャーの選挙区の代表として議員を務めた経験があった)の支持を受けて出馬を検討したが、クライヴ男爵 の勢力が中立を決め、ポウィス伯爵がブリッジマンの選出に反対したため、ブリッジマンは補欠選挙の数日前に立候補辞退を発表した[ 10] 。1768年イギリス総選挙 でもシュロップシャーからの出馬が噂されたが[ 10] 、実際にはブリッジマン家が一定の影響力を有するウェンロック選挙区 (英語版 ) でフォレスター家の支持も得て当選した[ 11] 。二家は支出を折半する形で協力し続け、ブリッジマンは1774年 、1780年 、1784年 、1790年 の総選挙で再選した[ 11] [ 12] 。1769年7月3日、ケンブリッジ大学よりLL.D. の学位を授与された[ 3] [ 4] 。
ナサニエル・ライダー (英語版 ) (のちの初代ハロービー男爵 )の日記によれば、ブリッジマンは1767年1月第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイ (1768年から1770年までの首相、1767年時点では第一大蔵卿 )に叙爵を申請して失敗した[ 1] 。グラフトン公爵内閣 期(1768年 – 1770年)では1769年のジョン・ウィルクス 当選問題で野党に同調して、ウィルクスを支持するよう投票した[ 1] 。ノース内閣 期(1770年 – 1782年)にも野党の一員として行動、シェルバーン伯爵内閣 期(1782年 – 1783年)ではフォックス 派の一員として、内閣によるアメリカ独立戦争 予備講和条約に反対票を投じた[ 1] 。
ポートランド公爵派ホイッグ党員として
フォックス=ノース連立内閣 期(1783年)ではフォックスの東インド法案に賛成票を投じ、第1次小ピット内閣 (1783年 – 1801年)でははじめ野党の立場にあったが、党派的な議題でなかった首相小ピット の選挙改革案には賛成した[ 1] 。小ピット内閣期ではフォックス派ではなくポートランド公爵 派ホイッグ党に所属したとされ、ポートランド公爵は1780年にウィガン選挙区 (英語版 ) の1議席を同選挙区で一定の影響力を有するブリッジマンに譲り、ブリッジマンは息子をウィガン選挙区で当選させた[ 13] 。1785年にホイッグ・クラブ(Whig Club )に加入した後も引き続き小ピット内閣に対する野党の立場にあったが、1794年にポートランド公爵が与党に転じると、ポートランド公爵派への褒賞として叙爵が行われることになり[ 14] 、ブリッジマンは1794年8月13日にグレートブリテン貴族 であるシュロップシャー におけるブラッドフォードのブラッドフォード男爵 に叙された[ 3] [ 15] 。46年間にわたる庶民院 議員生涯において、議会で発言したのは1770年3月に動議に賛成したときの1回だけだった[ 1] 。
晩年
1793年7月4日、オックスフォード大学 よりD.C.L. (英語版 ) の学位を授与された[ 3] 。
1800年6月5日にロンドン のオールド・バーリントン・ストリート (英語版 ) で死去、三男オーランド が爵位を継承した[ 3] 。
家族
1755年7月12日、エリザベス・シンプソン(Elizabeth Simpson 、1735年11月14日 – 1806年3月6日 バース 、ジョン・シンプソンの娘)と結婚[ 3] 、5男3女をもうけた[ 5] 。
ヘンリー・シンプソン (1757年4月12日 – 1782年7月26日) - 庶民院議員、生涯未婚[ 16]
アン(1757年11月29日 – 12月[ 17] )
オーランド(1759年1月24日 – ?) - 夭折[ 17]
シャーロット(1761年1月28日 – 1802年7月6日) - 1784年5月15日、ヘンリー・グレスウォルド・ルイス(Henry Greswolde Lewis )と結婚[ 17]
オーランド (1762年3月19日 – 1825年9月7日) - 第2代ブラッドフォード男爵、初代ブラッドフォード伯爵[ 3]
ジョン (英語版 ) (1763年5月13日 – 1850年6月5日) - 庶民院議員。1784年6月3日、ヘンリエッタ・フランシス・ウォーズリー(Henrietta Frances Worsley 、1791年7月25日没、第6代準男爵サー・トマス・ウォーズリー の娘)と結婚、子供あり。1793年11月27日、グレース・エストウィック(Grace Estwicke 、1839年1月1日没、サミュエル・エストウィックの娘)と再婚、子供あり[ 2]
エリザベス・ダイアナ(1764年6月5日 – 1810年5月5日[ 17] ) - 1794年2月10日、ジョージ・ウィリアム・ガニング (英語版 ) と結婚、子供あり[ 18]
ジョージ(1765年8月11日 – 1832年10月27日) - 1792年7月28日、ルーシー・ボイル(Lucy Boyle 、1801年9月7日没、第7代コーク伯爵エドマンド・ボイル の娘)と結婚、子供あり。1809年8月16日、シャーロット・ルイーザ・ポインツ(Charlotte Louisa Poyntz 、1840年1月26日没、ウィリアム・ポインツの娘)と再婚、子供あり[ 2]
出典
^ a b c d e f g h i j k Namier, Sir Lewis (1964). "BRIDGEMAN, Henry (1725-1800), of Weston Park, Staffs." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月18日閲覧 。
^ a b c d Burke, Sir Bernard ; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 294.
^ a b c d e f g h Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary , eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 275–276.
^ a b "Bridgeman, Henry. (BRGN744H)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ a b c Lawson, J. B. (1970). "BRIDGEMAN, Henry (1725-1800), of Weston Park, Staffs." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月18日閲覧 。
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^ Deas, Sarah; Bucholz, Robert Orland. "Household of George William Frederick, Prince of Wales 1738-1760" (PDF) . The Database of Court Officers: 1660-1837 (英語). p. 2. 2021年8月18日閲覧 。
^ Bucholz, Robert Orland, ed. (2006). "Index of officers: Br - By" . Office-Holders in Modern Britain (英語). Vol. 11. London: University of London. pp. 783–822. British History Onlineより。
^ a b Namier, Sir Lewis (1964). "Shropshire" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月18日閲覧 。
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^ Port, M. H.; Thorne, R. G. (1986). "BRIDGEMAN, Sir Henry, 5th Bt. (1725-1800), of Weston Park, Staffs." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月18日閲覧 。
^ "No. 13692" . The London Gazette (英語). 9 August 1794. p. 818.
^ Brooke, John (1964). "BRIDGEMAN, Henry Simpson (1757-82)." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月18日閲覧 。
^ a b c d Debrett's Peerage of the United Kingdom of Great Britain and Ireland (英語). Vol. I (17th ed.). London: G. Woodfall. 1828. p. 240.
^ Port, M. H. (1986). "GUNNING, George William (1763-1823), of Horton, Northants." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年8月18日閲覧 。
外部リンク