ベッドフォード公爵 (英語 : Duke of Bedford )は、イングランド貴族 の公爵 位。爵位名はベッドフォードシャー のベッドフォード に由来する。過去に5度創設されており、現存する第5期のベッドフォード公爵位は、廷臣 ジョン・ラッセル が1539年 に叙されたラッセル男爵位と1551年 に叙されたベッドフォード伯爵 位を前身とし、1694年 に第5代ベッドフォード伯ウィリアム・ラッセル が叙されたのに始まる。「ベドフォード 」とも表記される。
歴史
ラッセル家前のベッドフォード公
1414年 5月16日 にヘンリー4世 の第3子ジョン・オブ・ランカスター (1389-1435) が一代限りの爵位としてベッドフォード公に叙されたのが最初の創設である[ 2] 。彼は1422年にフランス占領地の摂政となり、百年戦争 後期のイングランド軍を指揮し、ジャンヌ・ダルク を火刑に処したことなどで知られる。彼の死後、爵位は消滅した。
ついで1470年 1月5日 に初代モンタギュー侯爵ジョン・ネヴィル の長男ジョージ・ネヴィル (1461-1483) が王女エリザベス・オブ・ヨーク との結婚を見越してベッドフォード公爵に叙位されたが、彼の父がランカスター派に転じて敗死したため、エリザベスとの婚約が破談となり、さらに1478年3月に「名誉ある地位を保てるだけの財産がない」とされて議会法によって爵位をはく奪されている[ 5] [ 6] 。
その直後にエドワード4世 の三男ジョージ・プランタジネット (英語版 ) (1477-1479) に与えられるも、夭折したため消滅した[ 7] 。
1485年 10月27日 にはヘンリー7世 の叔父でヘンリー7世の擁立に貢献したジャスパー・テューダー (1431-1495) に与えられたが、男子がなかったために1代で絶えた[ 9] 。
ラッセル家がベッドフォード伯位を得る
4代ベッドフォード伯フランシス (英語版 ) (1593-1641) が建設したウォバーン・アビー 。
現在のベッドフォード公であるラッセル家の祖は初代ベッドフォード伯爵ジョン・ラッセル (1485-1555) である。彼は貿易商をしていた1506年1月にドーセット に難破した神聖ローマ皇帝 マクシミリアン1世 の長男フィリップ とその妃フアナ の通訳を務め、その功績でヘンリー7世 の宮廷官に取り立てられた。続くヘンリー8世 の時代にも外交官や枢密顧問官 として活躍し、修道院解散で修道院所有の荘園を次々と獲得した。ベッドフォードシャー のミルトン・キーンズ 付近にあるウォバーン・アビー の荘園やロンドン中心部コヴェント・ガーデン もこの時に入手している。ヘンリー8世の宮廷では粛清が相次いだが、彼は処刑されることなく、次のエドワード6世 の時代まで宮廷で重きをなし続けた。1539年 3月9日 にはヘンリー8世よりベッドフォード州におけるチェニースのラッセル男爵 (Baron Russell, of Chenies in the County of Bedford) 、1551年 1月19日 にはエドワード6世よりベッドフォード伯爵 (Earl of Bedford) に叙せられている[ 12] 。
その子である第2代伯フランシス (英語版 ) (1527-1585) は、エリザベス1世 時代に外交官として活躍したことやフランシス・ドレイク の名付け親となったことなどで知られる。
2代伯の跡は2代伯の三男ヘンリーの子であるエドワード (英語版 ) (1572-1627) が継いだが、彼には男子がなかったため、その死後、2代伯の四男初代ソーンホーのラッセル男爵 (英語版 ) ウィリアム (英語版 ) (1558–1613) の子である第2代ソーンホーのラッセル男爵フランシス (英語版 ) (1593-1641) が4代伯を継承した。そのためこれ以降ノーサンプトン州におけるソーンホーのラッセル男爵 (Baron Russell of Thornhaugh, in the County of Northampton) も従属爵位に加わる[ 13] 。また4代伯はウォバーン・アビーに邸宅を立てた人物であり、以降ここがラッセル家の本拠となる。4代伯の長男が初代ベッドフォード公に叙されることになる第5代ベッドフォード伯ウィリアム・ラッセル (1613-1700) である。
冤罪の詫びで公爵に叙される
ライハウス陰謀事件 において冤罪で処刑されたラッセル卿ウィリアム・ラッセル (1639-1683)
5代ベッドフォード伯の息子のラッセル卿(儀礼称号 )ウィリアム・ラッセル (1639-1683) は、ホイッグ党 幹部、反カトリック の強硬プロテスタント として庶民院 で活躍した。そのため淫靡な風潮を好む国王チャールズ2世 やカトリックの王弟ヨーク公 ジェームズ と対立を深めた。
そんな中の1683年 6月にライハウス陰謀事件 (チャールズ2世やヨーク公を暗殺して、チャールズ2世の庶子でプロテスタントのモンマス公 ジェイムズ・スコット を擁立しようとしたとされる計画)が持ちあがった。官憲の捜査の手はホイッグ党幹部に伸び、事件と関係がなかったラッセル卿も冤罪で逮捕された。ラッセル卿は裁判で無罪を主張したものの、結局大逆罪 により死刑判決を受けた。父である5代ベッドフォード伯をはじめとする多くの人から助命嘆願が国王に寄せられたものの受け入れられず、7月21日 に処刑された(ただしヨーク公が首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑 を求めたのに対してチャールズ2世はそれを退けて貴族の尊厳を認めた斬首刑で死刑を行わせている)。
1685年 、カトリックのヨーク公がジェームズ2世として即位したが、1688年 には名誉革命 が発生し、ジェームズ2世は王位を追われ、プロテスタントのウィリアム3世 とメアリー2世 夫妻が新国王に擁立された。この影響で1689年 の議会はラッセル卿の大逆罪を否認する決議を出し、その名誉を回復した。ついで1694年 5月11日 には息子を冤罪にかけたお詫びとして81歳になっていた5代伯がベッドフォード公爵 (Duke of Bedford) とタヴィストック侯爵 (Marquess of Tavistock) に叙されたのだった。
ベッドフォード公としてのラッセル家
公爵家の紋章が捺された蔵書票
1700年 の初代公の死後、爵位はその孫にあたるライオセスリー (1680-1711) (処刑されたラッセル卿の遺児)が継承した。彼は襲爵前の1695年5月に母レイチェル (英語版 ) の周旋で、資産家ジョン・ホウランドの娘で女子相続人のエリザベス (Elizabeth Howland) と結婚しており、これによりベッドフォード公爵家は10万ポンドの遺産とロンドン・ストリーサム (英語版 ) をはじめとするホウランド家の所領を相続し、イングランド四大資産家の一家に数えられるようになった。また、この結婚を機に祖父が1695年6月13日にカウンティ・オブ・サリーにおけるストリーサムのホウランド男爵 (Baron Howland, of Streatham in the County of Surrey) に叙されている[ 20] 。
2代公の同名の子で3代公を継承したライオセスリー (1708-1732) は、ギャンブル好きでプロのギャンブラーの餌食となり25万ポンドも失ったが、マールバラ公 ジョン・チャーチル 夫人サラ の財政援助や跡を継いだ弟の4代公ジョン (1710-1771) の努力で財産を回復させ、デヴォンシャー公爵 、ノーサンバーランド公爵 、ブリッジウォーター公爵 とならぶ4大資産家の地位を取り戻した[ 22] 。また4代公は軍人として中将まで昇進した他、政界でもホイッグ党の派閥の長として枢密院議長 や国璽尚書 などの閣僚職を歴任した。
4代公の子である5代公フランシス (英語版 ) (1765-1802) と6代公ジョン (1766-1839) は共に浪費家で散財したが、6代公は王立植物園キューガーデン 創設に貢献している[ 24] 。また6代公の妻ジョージアナ(第4代トリントン子爵 ジョージ・ビング の娘)からの遺伝でベッドフォード公爵家にメランコリー が流れ込んだ。これ以降の当主は多かれ少なかれメランコリーに苦しむことになる。
6代公の長男である7代公フランシス (1788-1861) は徹底した緊縮により家計の立て直しに努めた。しかし使うべき時には決して出し惜しみせず、彼の妻アンナ も客人をよくもてなし、イギリスの「5時のお茶 (five o'clock tea) 」の風習はアンナのもてなしを起源としている。またホイッグ党(自由党 )の政治家である次弟(6代公の三男)ジョン・ラッセル卿 への金銭支援も欠かさなかった。その結果ジョン・ラッセル卿は政界の中心として活躍し続けることができ、首相 (在職1846-1852、1865-1866)や外務大臣 (在職1852-1853、1859-1865)を歴任し、1861年にはラッセル伯爵 に叙されている[ 27] 。その子孫第3代ラッセル伯が哲学者と知られるバートランド・ラッセル である。
7代公の息子である8代公ウィリアム (1809-1872) は重度のメランコリーに苦しみ、生涯結婚しなかった。彼の死後に爵位は6代公の次男ウィリアムの子であるフランシス (1819-1891) が継承したが、彼もメランコリーに苦しみ、拳銃自殺するという衝撃的な最期を遂げた。
その子ジョージ (1852-1893) が10代公となったが、襲爵から2年後には急死したため、弟のハーブランド (英語版 ) (1858-1940) が11代公を継承した。11代公夫妻は動物を共通の趣味とし、犬、猫、鹿、鳥類などを収集した。これが後のサファリパーク開園につながる。妻メアリーは活動的な女性で晩年にはパイロットとして自家用飛行機で飛び回っていたが、1937年に航空事故死した。夫の11代公もその3年後に死去した。11代公は息子と仲が悪かったため、相続税対策が遅れ、財産税攻勢の直撃を被った。ロンドン・コヴェント・ガーデンの土地はこの際に手放している。
11代公の息子である12代公ヘイスティングス (英語版 ) (1888-1953) は、第二次世界大戦 中に貴族院 で戦争反対を訴え続けたため、「ファシスト 」だの「共産主義者 」だのと誹謗中傷された。迫害に晒される12代公は人間に嫌気がさし、「動物は自分を裏切らない」と語って父同様動物収集にはまるようになった。また狩猟好きでもあったが、1953年秋に領地での狩猟中に行方不明となった。捜索の結果、藪の中で散弾銃を受けた12代公の遺体が発見された。この不可解な死をめぐる真相は未だ不明である。
貴族に対する過酷な相続税攻勢は1954年の改正で緩和されるが、12代公の不審死はそれにぎりぎり間に合わず、公爵家は再び相続税の直撃を被り、更なる土地の売却に迫られた。ベッドフォード公爵家の所有地はついに本拠のウォバーン・アビー の屋敷と領地だけになってしまった。
家計の立て直しのために13代公イアン (英語版 ) (1917-2002) は先祖の収集した動物をサファリパークにして開園した。
2015年 現在の当主はその孫である15代公アンドリュー・ラッセル (英語版 ) (1962-) である。
ベッドフォード公爵ラッセル家のモットーは「なるようになる (Che Sera Sera) 」[ 33] 。
現当主の保有爵位
上記の経緯から現在の当主15代ベッドフォード公爵アンドリュー・ラッセル (英語版 ) は以下の爵位を保有している[ 34] [ 33] 。
第15代ベッドフォード公爵 15th Duke of Bedford
(1694年 5月11日 の勅許状 によるイングランド貴族 爵位)
第15代タヴィストック侯爵 15th Marquess of Tavistock
(1694年5月11日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
第19代ベッドフォード伯爵 19th Earl of Bedford
(1550年 1月15日 の勅許状によるイングランド貴族爵位)
ベッドフォード州におけるチェニースの第19代ラッセル男爵 19th Baron Russell, of Chenies in the County of Bedford
(1539年 3月9日 の勅許状によるイングランド貴族爵位)
ノーサンプトン州におけるソーンホーの第17代ラッセル男爵 (英語版 ) 17th Baron Russell of Thornhaugh, of Thornhaugh in the County of Northampton
(1603年 7月21日 の勅許状によるイングランド貴族爵位)
サリー州におけるストリーサムの第15代ホウランド男爵 15th Baron Howland, of Streatham in the County of Surrey
(1695年 6月13日 の勅許状によるイングランド貴族爵位)
ベッドフォード公爵家の法定推定相続人は父が有する爵位のうちタヴィストック侯爵を儀礼称号 として使用する。またその次の法定推定相続人(嫡流の孫)は祖父が保有する爵位のうちホウランド男爵を儀礼称号として使用する。
ラッセル家前の一覧
第1期 ベッドフォード公 (1414年)
第2期 ベッドフォード公 (1470年)
第3期 ベッドフォード公 (1478年)
第4期 ベッドフォード公 (1485年)
ラッセル家の一覧
ラッセル男爵 (1539年)
ベッドフォード伯 (1551年)
第5期 ベッドフォード公 (1694年)
法定推定相続人 は2005年 6月7日に誕生した当代の長男のタヴィストック侯爵(儀礼称号)ヘンリー・ラッセルである。
系図
ベッドフォード公プランタジネット・テューダー家系図
脚注
注釈
出典
^ Lundy, Darryl. “John of Lancaster, Duke of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ Heraldic Media Limited. “Montagu, Marquess of (E, 1470 - degraded 1478) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2020年5月3日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “George Neville, 1st and last Duke of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “George Plantagenet, Duke of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Sir Jasper Tudor, 1st and last Duke of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “John Russell, 1st Earl of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “Francis Russell, 4th Earl of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “William Russell, 1st Duke of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
^ 森(1987) p.222-224
^ 森(1987) p.227
^ 森(1987) p.229
^ a b Heraldic Media Limited. “Bedford, Duke of (E, 1694) ” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage . 2015年11月17日 閲覧。
^ Lundy, Darryl. “William Andrew Ian Henry Russell, 15th Duke of Bedford ” (英語). thepeerage.com . 2015年3月4日 閲覧。
参考文献
関連項目