マヌエル2世 (ポルトガル王)
マヌエル2世(ポルトガル語: Manuel II, 1889年3月19日 - 1932年7月2日)は、ポルトガル王国の最後の国王(在位:1908年2月1日 - 1910年10月4日)。カルロス1世とフランス国王ルイ・フィリップの曾孫アメリア王妃の子。実名はマヌエル・マリア・フィリペ・カルロス・アメリオ・ルイス・ミゲル・ラファエル・ガブリエル・ゴンザガ・シャヴィエル・フランシスコ・デ・アシス・エウジェニオ(Manuel Maria Filipe Carlos Amélio Luís Miguel Rafael Gabriel Gonzaga Xavier Francisco de Assis Eugénio)で、「愛国王(o Patriota)」と呼ばれる。 生涯祖父ルイス1世の治世最後の年に生まれ、ベージャ公爵の称号を授けられた。 1908年にマヌエルが即位したのは、父王カルロス1世と兄の王太子ブラガンサ公爵ルイス・フィリペが同時に、王が弾圧していた急進的共和主義者に暗殺されたためである。カルロス1世の放漫財政に由来する社会不安が要因の事件であった。次男のベージャ公爵マヌエルもこの暗殺事件で腕を負傷したが、父王が即死、20分後に兄が死亡したことにより、数日後にマヌエル2世として即位することとなった。 王太子として育てられた兄と違い、若いマヌエルは国王としての教育を受けていなかったが、崩壊に向かうブラガンサ王家を独裁者ジョアン・フランコの内閣から守ろうと努めた。だが自由選挙が行われた後、革命が起こり、王政の廃止と共和政が成立した。王位を追われたマヌエル2世はジブラルタルを経てイギリスへ亡命した。 なおもポルトガル国内の王党派は王政復古運動を進めていたが、1910年にブラガンサ王家の復活に失敗している。 1913年9月4日、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯ヴィルヘルムの娘アウグステ・ヴィクトリアとイギリスで結婚した。亡命後のマヌエルは中世からルネサンス期のポルトガル文学についての非常に貴重な本を執筆するのをライフワークとした。 1932年、ミドルセックスで死去した。ポルトガル本土では、サラザール体制により国葬が行われた。 後継者(王位請求者)妻アウグスタとの間には子がなかったため、死の前にポルトガル王位の後継者として、対立するミゲリスタ側の王位請求者であったドゥアルテ・ヌノ(ミゲル1世の長男ミゲル2世の子)を指名した。これにより、ドゥアルテ・ヌノは統一されたポルトガル王位請求者となった。ドゥアルテ・ヌノはブラジル皇帝ペドロ2世の曾孫で従妹のマリア・フランシスカを妻に迎え、国王の母アメリー・ドルレアンはドゥアルテ・ヌノの長男ドゥアルテ・ピオの名付け親を務めた。 系図
その他日本の華族の一員であった有馬頼寧は、1910年(明治43年)ロンドンに遊学。この際、亡命したポルトガル国王(マヌエル2世)の「雨中に立たれた写真」を見て驚愕、社会改革の必要性を痛感して帰国することとなった。 参考文献脚注注釈出典関連項目 |