ヤン・クリスティアーン・スマッツ (アフリカーンス語 : Jan Christiaan Smuts OM CH ED PC KC FRS 、1870年 5月24日 – 1950年 9月11日 )は、南アフリカ連邦 およびイギリス連邦 の政治家 、軍人 、哲学者 である。南アフリカ連邦で第2代、第4代首相 を務めた。
略歴
スマッツは1870年5月24日、英領ケープ植民地 のマームズベリーでアフリカーナー の大農園主の息子として生まれた。ステレンボッシュにあるヴィクトリア・カレッジ(のちのステレンボッシュ大学)に進学した後、さらに奨学金を得てケンブリッジ大学 に進学した。
1895年 にケープ植民地に戻ると、彼はケープタウン で弁護士 を開業したが、1896年 のジェームソン襲撃事件に憤激したスマッツはケープタウンからトランスヴァール共和国 の首都プレトリア へ移住し、トランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガー に才能を認められて司法長官の地位に就いた。
スマッツは1899年 、トランスヴァール共和国がイギリス に突きつけた最後通牒を起草した。
ボーア戦争 が開戦すると、スマッツはトランスヴァール軍の指揮官の一人としてイギリス軍と戦い、首都陥落後もジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク やルイス・ボータ 、クース・デ・ラ・レイらと抗戦を続け、戦争末期にはケープ植民地の奥深くを転戦してケープのアフリカーナーの反乱を起こそうとしたが、これは失敗に終わった。ボーア戦争敗北後、スマッツはボータとともにトランスヴァールのアフリカーナーの指導者となり、オレンジ川植民地(旧オレンジ自由国 )のアフリカーナー指導者となったヘルツォークと協力して自治回復の運動を繰り広げた。
1907年 の選挙でアフリカーナー勢力は大勝し、スマッツはトランスヴァール植民地の指導者となった。トランスヴァールの政権を握ると、スマッツとボータは南アフリカ4植民地の合同を提唱し、各植民地も賛同。1910年 に南アフリカ連邦 が成立すると、スマッツはルイス・ボータ内閣の内相及び国防相となった。彼は様々な内閣に参加し、1919年から1924年と1939年から1948年に南アフリカ連邦の首相となった。
第一次世界大戦 と第二次世界大戦 時にイギリスの陸軍元帥 となる。当初は南アフリカ現地生まれ白人の多くがそうであるように人種間差別を擁護する姿勢をとり、黒人の解放は西洋文明の究極的崩壊につながると考えていた。1923年には、都市の外れに黒人隔離行政区を建設し、黒人を都市から一掃する措置を首相として講じた。首相として両大戦の間の幾年間に、アパルトヘイト を進めたかった大部分のアフリカーナー に反対した。第二次世界大戦 後、彼はファーガン委員会を設立した。委員会は、南アフリカの全ての隔離政策を放棄することを支持していた。しかしながら、スマッツが提案を実行できる以前に彼は1948年の選挙に敗れ、アパルトヘイトの政策が実行されることとなる。1950年に死去をした。
人物
ルイス・ボータ(左)とスマッツ
スマッツは、第二次ボーア戦争 の時指揮官として導いている。第一次世界大戦の間はドイツ に対して南アフリカの軍隊を仕向け南西アフリカ を占拠し東アフリカではイギリス軍 を指揮した。1917年 から1919年 まで英国戦争内閣の一員であり、イギリス空軍 創設にも助力している。第二次世界大戦の間は彼は1941年 にイギリス軍 の陸軍元帥 となり、ウィンストン・チャーチル の下、戦時内閣にも入閣した。スマッツは両大戦の平和条約に署名した唯一の人物でもある。スマッツの成果の一つとしては国際連盟 と国際連合 の設立に関わったことも挙げられる。国際連盟規約 と国際連合憲章 の両方に署名した唯一の人物であり、国連憲章の前文を書いた。イギリスとイギリス連邦 を樹立する時、いままでの関係を再検討した。
スマッツは、ユダヤ人移民を規制したマクドナルド白書 に反対し[ 1] 、ユダヤ人のシオニズム 運動に協力的であった[ 2] [ 3] 。1949年にはスマッツと親交があったイスラエル 初代大統領ハイム・ヴァイツマン の75歳の誕生日を祝うハーバート・サミュエル 主催の夕食会に参加してヴァイツマンをモーセ やダビデ と比較して称えた[ 4] [ 5] 。イスラエルでは恩人としていくつかの通りやキブツ にスマッツの名前がついている[ 6] 。
1926年に刊行している『ホーリズム と進化(Holism and Evolution)』では、生物学における個的機械主義的原子論的な姿勢を問題化して、人格的全体論的姿勢を訴えている。1942年にロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ よりアルバート・メダル を授与された。
2004年、南アフリカ放送協会による古今の南アフリカで一番の偉人を選ぶ投票でその中の一人に選ばれた。政治的な理由により放送には利用されなかったが、最終的なトップ10は第2ラウンドで決定されるが第1ラウンドではネルソン・マンデラ が1位となった。スマッツは6位であった。
脚注
^ Crossman, R.H.S. (1960). A nation reborn;: A personal report on the roles played by Weizmann, Bevin and Ben-Gurion in the story of Israel. Atheneum Publishers. ASIN B0007DU0X2. p.76
^ Klieman, Aaron S. (1991). Recognition of Israel: An End & a New Beginning: An End and a New Beginning. Routledge, p. 16. ISBN 978-0824073619 .
^ Hunter, Jane (1987). Israeli Foreign Policy: South Africa and Central America. Spokesman Books. pp 21–22 ISBN 978-0851244853 .
^ “Emergence of Israel Hailed by Ex-premier Smuts at London Dinner Honoring Weizmann ” (英語). Jewish Telegraphic Agency . 2020年10月28日 閲覧。
^ Lockyer, Norman. Nature, digitized 5 February 2007. Nature Publishing Group.
^ Beit-Hallahmi, Benjamin (1988). The Israeli Connection: Whom Israel Arms and Why. I.B. Tauris. pp 109-111. ISBN 978-1850430698 .
関連項目
外部リンク
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