1891年 のヨウン・アウルトナソン
ヨウン・アウルトナソン [ 1] (Jón Árnason , 1819年 8月17日 - 1888年 9月4日 [ 2] )は、アイスランド の作家 、国立図書館長 、童話作家 。アイスランド民話の初の収集家として知られる。ヨーン・アルナソン [ 3] 、ヨウーン・アウトナソン [ 4] とも。
経歴
1819年 、スカガストロンド (英語版 ) のホフ (アイスランド語版 ) に生まれる[ 5] [ 6] 。首都レイキャヴィーク 近郊のベッサスタージル に在したラテン語学校(現・レイキャヴィーク高等学校 (英語版 ) 〔メンタスコウリン・イー・レイキャヴィーク〕)を1843年 に卒業[ 5] [ 7] 。スヴェインビョルン・エギルソン (英語版 ) の元に棲みこみ薫陶を受けた[ 5] [ 注釈 1] 。
1848-1887年にかけ、現今のアイスランド国立図書館 (英語版 ) の前身で初代館長を務めた[ 8] [ 6] [ 9] [ 注釈 2] 。この期間、アイスランド文学協会 (英語版 、アイスランド語版 ) の初代アイスランド支部図書館 長も兼任[ 5] 。またアイスランド国立博物館 の前身である「アイスランド古物コレクション」(Forngripasafns Íslands )の創立時の1863年 に、初代主任(キュレーター )に任命された[ 6] 。
図書館員の公職は薄給であったが、貴重な図書目録を作成するなど耐えて仕事に従事し[ 9] [ 10] 、そのかたわら、収入を補うため母校(この頃にはレイキャヴィークに移転)で教師を兼ねて図書館長を受け持ち、また当時の司教ヘルギ・G・トルデルセン (アイスランド語版 ) の秘書も務めた[ 5] 。1877年 、スウェーデンのウプサラ大学 創立400周年記念祭に出席するアイスランド代表のひとりに選出されたとき、コペンハーゲン の中央政府(当時はアイスランドはデンマークが統治)は、「下男ごときを送るとはなんたることか」と不快を示したという逸話が残されている。アイスランドの高等学校の清掃係だと先方には伝わっていたらしい[ 11] 。
民話収集活動
ドイツ のグリム兄弟 の『グリム童話集 』に触発され、高等学校に在籍中の1845年 頃から、友人マグヌース・グリームソン牧師[ 注釈 3] と共同で民話 収集をおこない、『アイスランドの民話』 (Íslenzk ævintýri , 1852年 )[ 8] として発表した[ 10] 。この小冊子は反響が乏しく、続篇を発表する目途が立たずに、ひところ収集熱も醒めていた。しかしゲルマン学者コンラート・マウラー (英語版 ) が1858年 が、自著[ 注釈 4] の取材のためアイスランドを訪問した際に二人を激励し、収集が再開された。マグヌースの死去後(1860年)、単独で収集を完成[ 10] [ 10] [ 12] 。成果の一部は、2巻本『アイスランドの伝説と民話』[ 注釈 5] (Íslenzkar Þjóðsögur og Æfintýri , 1862 /1864年 )としてドイツの ライプツィヒ でに刊行された[ 注釈 6] [ 注釈 7] 。しかし残りすべての資料も補完した完全版(全6巻)の出版は、1世紀近く後の1954~61年を待たねばならなかった[ 8] 。
日本では、菅原邦城 による62話の抄訳『アイスランドの昔話』(1979年)、谷口幸男 によるドイツ語からの重訳『世界の民話‹32›アイスランド』が訳出されている[ 8] 。
また、ドイツ訳にヨーゼフ・ポエスチオン (ドイツ語版 ) 編『アイスランドお伽噺集』(Islandische Märchen, 1884年)がある[ 注釈 8] 。谷口の重訳もこれを原本とする [要検証 – ノート ] [ 13] 。古くは巖谷小波 編「王取王子」がこのドイツ訳経由である[ 14] 。のちにマルガレッテ・レーマン=フィルヘス (Margarethe Lehmann-Filhés)が、ポエスチオンとは重複しない220話を撰したドイツ訳のアイスランド民話集(1889年)を発表した[ 15] [ 16] 。
他にもジョージ・E・J・パウエル(1842-82年)とエイリクル・マグヌソン (英語版 ) の共訳(英訳)があり、全2巻でそれぞれ66話、80話を所収する[ 15] 。
ヨウンとマグヌスの2人には、みずから遊歴して民話を採集するいとまもゆとりもなかったので、教え子たちやその他の人脈をたどって民話を書記したものを送ってもらっていた[ 10] 。またいずれかが文章に「手を加えた」ともされているが、些細な変更であった。アイスランドは、当時のヨーロッパにしては学歴や社会層の格差が小さく、均一にサガ 風の文体を敬愛していた国柄なので、文章の作風にもさほどの相違はなかったのである[ 17] 。
他にもマルティン・ルター 伝記(1852年)、カール大帝 伝記(1853年)、恩師 スヴェインビョルン・エギルソン (英語版 ) [ 注釈 1] の作品集・伝記(1855-56年)、『アイスランドのなぞなぞ、笑い話、ヴィーキヴァーキ、シュールル』(Íslenzkar gátur, skemmtanir, vikivakar og þulur 全4巻。1887-1903年)[ 8] 等を執筆している[ 18] [ 11] 。
私生活
長年、独身を貫いたが、1866年に妻帯し、カトリーン・ソルヴァルズドッティル(Katrín Þorvaldsdóttir)とのあいだに一子をもうけたが、利発的で嘱望あったその息子には先立たれている[ 11] [ 19] 。長い闘病生活のはてに生涯をとじた[ 2] 。
作品
Jón Árnason and Magnús Grímsson (ed.) Íslenzk Æfintýri . Reykjavík, 1852.
Jón Árnason (1862-64). Íslenzkar Þjóðsögur og Æfintýri . 1-2 . Leipzig: J. C. Hinrichs (「アイスランドの伝説と民話」)
Jón Árnason. Ágrip af æfisögu Dr. Marteins Lúters . Reykjavík, 1852. OCLC 52435258
Jón Árnason. Sagan af Karlamagnúsi keisara . Copenhagen, 1853. OCLC 264953221
脚注
注釈
出典
^ 清水 2009 , 北欧アイスランド文学の歴史(1)の表記
^ a b Mannslát (追悼文), Ísafold 新聞, 1888年9月5日号 . (アイスランド語)
^ 山室 1971 , pp. 204, 312
^ 菅原 1979
^ a b c d e Carpenter, William H. (1889). “Obituary: Jón Árnason” . Modern Language Notes 4 . https://books.google.co.jp/books?id=RPsmAQAAIAAJ&pg=PA196 . (追悼文)
^ a b c d Warner 1896 , Vol. 2, pp.802-3
^ ヨウナス・ハトルグリムソン の出身校でもあるので、清水 2009 , 北欧アイスランド文学の歴史(1), p.167-8よりその説明を借用できる
^ a b c d e 清水 2009 , 北欧アイスランド文学の歴史(1), p.182
^ a b Steingrímur Jónsson (2001), Icelandic Libraries , in Stam, David H., , International Dictionary of Library Histories (Chicago: Fitzroy Dearborn) 1 : pp. 77-80, ISBN 1-57958-244-3 , https://books.google.co.jp/books?id=Zoq_TtEN54IC&pg=PA78&redir_esc=y&hl=ja
^ a b c d e Simpson 1972 , p. 2
^ a b c Guðbrandur Vigfússon (1888-09-29). “Obituary: Jon Arnason” . The Academy (London: J. Murray) 39 (856): 205. OCLC 64040322 . https://books.google.co.jp/books?id=pjUZAAAAYAAJ&pg=PA205&redir_esc=y&hl=ja . . (追悼文。印刷物は筆者の記名が欠けるが、OCLC 64040322 にグウズブランドゥル・ヴィグフッソン (Guðbrandur Vigfússon ) の著述と記載される。
^ n/a (08 1862). “Íslenzkar thjódhsögur og Æfintýri safnadh hefir Jón Árnason. Fyrsta bindi (新書紹介)” . Anzeiger für Kunde der deutschen Vorzei 9 (8): 304-305. https://books.google.co.jp/books?id=dj8FAAAAQAAJ&pg=PA503&redir_esc=y&hl=ja . (ドイツ語)
^ 谷口は原書を"Mär."としている
^ 巌谷小波「131.王取王子」『袖珍世界お伽噺』 第8集、博文館、1922年、41-82頁。 p.1, 「目次並び解題」に:「王取王子 ポエスチオン氏の集めた『アイスランドお伽噺集』中に『鼠色の男』と題した一編がある、これがこの話の原話である。」と記される。ドイツ語の原本はDer Grauer Mann で、アイスランド語の原話は Grámann (wikisource )
^ a b Hartland, E. Sydney (03 1894). “Reviews: Isländische Volkssagen (書評)” . Folklore 5 : 154-155. https://books.google.co.jp/books?id=h0UKAAAAIAAJ&pg=PA154 .
^ Lehmann-Filhés 1889
^ Simpson 1972 , pp. 11–12
^ Pálma Pálsson (1891-01-01). “Æfiágrip Jóns Árnasonar landsbokavarðar” . Andvari 17 : 3-. http://timarit.is/view_page_init.jsp?pageId=4325643&issId=292845&lang=4 . p.25 (アイスランド語)
^ Pálma Pálsson 1891 , p. 23 (アイスランド語)
参考文献
解説書
民話集の訳出
菅原, 邦城 (訳) 著、ヨウーン・アウトナソン 編『アイスランドの昔話』 9巻、三弥井書店〈世界民間文芸叢書〉、1979年。
谷口, 幸男 (訳) 著、小沢俊夫 編『世界の民話』 32 (アイスランド)、ぎょうせい、1985年。ISBN 4324000611 。
洋書
民話集の英訳や独訳
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