Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

ロミー・シュナイダー

ロミー・シュナイダー
Romy Schneider
ロミー・シュナイダー Romy Schneider
1973年撮影
本名 ローゼマリー・マグダレーナ・アルバッハ(Rosemarie Magdalena Albach)
生年月日 (1938-09-23) 1938年9月23日
没年月日 (1982-05-29) 1982年5月29日(43歳没)
出生地 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国 オストマルク州ウィーン
死没地 フランスの旗 フランス パリ
国籍  オーストリア
西ドイツの旗 西ドイツ
フランスの旗 フランス
職業 女優
ジャンル 映画
活動期間 1953年 - 1982年
配偶者 Harry Meyen (1966年 - 1975年)
Daniel Biasini (1975年 - 1981年)
著名な家族 息子:David Christopher Haubenstock (1966年 - 1981年)
娘:Sarah Biasini (1977年 -)
主な作品
プリンセス・シシー』(1955年)
審判英語版』(1962年)
太陽が知っている』(1969年)
夕なぎ』(1972年)
ルートヴィヒ』(1972年)
追想』(1975年)
サン・スーシの女』(1982年)
受賞
セザール賞
主演女優賞
1975年L'important c'est d'aimer
1978年ありふれた愛のストーリー
名誉賞
2008年
その他の賞
テンプレートを表示

ロミー・シュナイダー(Romy Schneider、1938年9月23日 - 1982年5月29日)は、オーストリアウィーン出身の女優。西ドイツ(当時)、フランスの映画界で活躍した。出演した映画の数は60本を超える。

来歴

祖母・両親共に俳優で、14歳の時に役者を志し、15歳の時に母親の出演作でデビュー。

映画『プリンセス・シシー』3部作(1955年 - 1957年)でお転婆なバイエルン王国公女、のちのオーストリア皇后シシーを演じてアイドル的な人気を得る。そして、「シシー(Sissi)」はそのまま彼女の愛称にもなった。

1958年の『恋ひとすじに』で共演した当時無名のアラン・ドロンと恋に落ち婚約。その後、ハリウッドに進出し、第21回ゴールデングローブ賞作品賞 (ドラマ部門)を受賞した『枢機卿』でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされ、国際的に認められるようになった。また、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ボッカチオ'70』『ルートヴィヒ』やフランツ・カフカ原作/オーソン・ウェルズ監督の『審判英語版』、マルグリット・デュラス原作/脚本の『夏の夜の10時30分』などにも出演し、高い評価を得た。しかし、アラン・ドロンとは1964年に別れる結果になってしまう。

その他にもウディ・アレン共演作品やクロード・ソーテ監督作品などで活躍するが、私生活においては2度の結婚も離婚に終わり、14歳の息子を事故で亡くすなど不幸が続き、自身も1982年心不全で亡くなった。

ドイツで彼女の生涯を描いたTVムービー『Romy』(2009年放映)が、ロミー役にジェシカ・シュワルツ英語版、他トーマス・クレッチマンらの出演で制作された。[1]

生立ち

ロミーの祖母・ローザ・アルバッハ・レッティ (1874-1980) 1902年
ロミーの母・マグダ・シュナイダー(右) 1937年

祖母・ローザ・アルバッハ・レッティ英語版はウィーンのブルク劇場で活躍した大女優であり、その息子で父・ヴォルフ・アルバッハ・レッティ英語版も舞台・映画で活躍した俳優であった。[1]母・マグダ・シュナイダー英語版ドイツバイエルンアウクスブルクの出身。芸能には縁のない家庭の生まれであったが女優を志し、地方の舞台から1930年代に映画に進出、1932年の『恋愛三昧英語版』(独・日本未公開)のヒットで映画女優としての名声を確立した[2][3]。『恋愛三昧』はのちに娘ロミーとアラン・ドロンのコンビでリメイクされ、2人が恋に落ちるきっかけとなった[# 1]。  ヴォルフとマグダは1933年に映画で初共演後、9本のドイツ映画で共演し人気コンビとなる[5]。共演作を重ねるごとに2人の仲も密になり、1937年に結婚[6]。翌年ロミー(ローゼマリー)が、1941年に弟ヴォルフィ(のち医師となる)が生まれた[7][8]

ロミーはオーストリア国境に近いドイツ・バイエルンのベルヒテスガーデン近く・シェーナウの屋敷で、撮影や舞台で不在がちの両親に代わって母マグダの両親に育てられる[9]ヒトラーの山荘・ベルクホーフケールシュタインハウスのすぐ近くであった[10][11][# 2]。ロミー5歳の1943年に父ヴォルフに愛人ができ[12]、両親は1945年に離婚するが、母マグダがナチス、ヒトラー寄りの姿勢をとっていたことも離婚理由の1つであったらしい[13][# 3]

地元の小学校を卒業後、オーストリア・ザルツブルク近くのカトリック系の女子寄宿学校に進む[16][17][18]。お転婆で自立心が強くしばしば問題児扱いされた生徒だったようだが、自身の血筋を早くから意識していたらしく学校劇では才能を発揮、すでに将来の夢を女優に定めていた[19][20][21]。絵が得意だったロミーは「お芝居の世界で成功しなかったら、装飾美術をやろう」と日記に記している[22][23]

1954年「プリンセス・シシー」

『プリンセス・シシー』

1953年、14歳で寄宿学校を卒業。ほどなく母マグダ・シュナイダーの主演映画『再び白いライラックが咲いたら』に出演する話がもち上がり、カメラテストに合格、マグダの娘役でドイツ映画界にデビュー。このデビュー作のみ、ロミー・アルバッハ=シュナイダーの名を使っている[24][25][26][27][28][# 4](以下、「ドイツ」は当時の西ドイツ、「ベルリン」は西ベルリンのこと)

順調に役がつき、3作目の『女王さまはお若い』で主役のヴィクトリア女王役に抜擢される[30][31]。翌1954年、同じエルンスト・マリシュカ英語版監督でオーストリア皇后エリーザベトを演じたオーストリア映画『プリンセス・シシー』が大ヒット。全ヨーロッパで2500万人を動員し[32]、ロミーは16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターとなる。[# 5]しかし、固定化された(ロミー曰く)「お粥みたいにくっついて離れない」[34]“ロミー・シュナイダー=シシー”のレッテルは生涯にわたってロミーを苦しめることになる。

これ以降、ロミーのドイツ、オーストリアでの出演作の役は大衆向け娯楽作の甘い無害な歴史ロマンスのヒロインや清純な乙女といったものばかりになり、女優としての成長を望むロミーはしだいに苛立ちを感じるようになる[35][36]。しかしステージママ化した母マグダと継父の実業家ハンス・ヘルベルト・ブラッツハイムドイツ語版(莫大なロミーのギャラを自身の事業に投資していたが後に破産[37][38][39])は1956年若き皇后シシー』、1957年ある皇后の運命の歳月』とロミーをシシーの続編に出演させた。後に「『シシー・Ⅱ』の出演が決まったと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった」[40]とまでロミーは語っているが、嫌々演じたというのに、この2作も大ヒットしてしまう[41]

母と継父は『シシー・Ⅳ』への出演もロミーに強要しようとしたが、20歳のロミーは目の前にギャラとして100万マルク(現在の6億円くらい[42])を積まれても首を縦には振らなかった[43][44][45]

「私はシシーなんかじゃない。分かっていたのは私だけ。役として演じはしたけど、私は夢のようなお姫さまとは似ても似つかない人間だった」[46][47]

1959年独仏合作映画『Ein Engel auf Erden』(日本未公開)

アラン・ドロンとの出会い フランスへ

1958年、母マグダの出世作『恋愛三昧』のリメイク『恋ひとすじに』(仏・伊合作)で無名のアラン・ドロンと共演。[# 6]ロミーはフランス語が話せず、ドロンもドイツ語が分からなかったうえ、ロミーはドロンを悪趣味で気障な男だと感じ、ドロンはロミーを胸くそ悪いやつだと思い、初対面の2人のお互いの第一印象は極めて悪かった[49][50][51][# 7]。しかしパリとウィーンで行われた撮影の間に2人の映画の中での恋は本物となる。ドロンはロミーの無垢・純粋さに、ロミーはドロンの無鉄砲さ・反逆精神に惹かれた。お互いの中に自分にないものを見出したのである[52]

「シシー」的な企画ばかりのドイツ映画界への幻滅と、何かと干渉しようとする母・継父への成長したロミーの反抗も重なり、翌1959年ロミーはパリのドロンのもとへ出奔、同棲する[53][54][55]。体裁を気にしたロミーの母・継父との妥協策として59年3月、ロミーとドロンはスイスルガーノで婚約をマスコミに向け発表するが[56][57][58]、ドイツと家族を捨て、清純な乙女・お姫さま女優というファンのイメージを裏切ったロミーは、これ以後ドイツのマスコミには裏切り者扱いされ、その確執は彼女の死まで解けることはなかった。

ドロンはルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』(1960年)で一躍脚光を浴び、スター街道を駆け上っていくが、ドイツでの人気が落ちたロミーは逆に仕事が減ってゆく[59][60][61]

1960年秋、『若者のすべて』(1960年)に主演したドロンがルキノ・ヴィスコンティ監督をロミーに引き合わせたことが転機となる[62][63][64]。ヴィスコンティは自身が演出する舞台『あわれ彼女は娼婦』(ジョン・フォード作)への出演をロミーに依頼。まだ初歩のフランス語しか話せないロミーが、パリの大劇場で、しかも初舞台を踏むというのは無謀とも言えたが[65][66][# 8]ロミーは昼夜を徹してフランス語の猛特訓を受け、厳しいヴィスコンティの演出に耐えた[69][70]。そして1961年3月からのテアトル・ド・パリ英語版での舞台で、ロミーはドロンと愛し合う兄妹を演じる。舞台そのものは賛否両論であったが、ロミーの演技は高く評価され、ロミーは初めて女優としての充足感を得る[71][72]

続いて同じヴィスコンティ監督によるイタリア映画『ボッカチオ'70』(第3話「仕事中)に主演。夫と寝るごとに金を要求する妻、というセクシーな役で、ヌードシーンが話題となる[73][74]。続くフランツ・カフカ原作『審判英語版』(1962年)では監督も務めたオーソン・ウェルズと共演。ウェルズ演じる弁護士の看護婦兼秘書兼愛人のような女、というこちらもドイツ時代とは対照的な官能的な役を演じる[75]

『ボッカチオ'70』がアメリカでも好評で、コロンビア ピクチャーズ社と契約[76]カール・フォアマン監督『勝利者』(1963年)でハリウッドに進出。オットー・プレミンジャー監督『枢機卿』(1963年)ではゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされ、実父のヴォルフ・アルバッハ・レッティとも共演をはたしている[77][75]

しかし、婚約者のドロンとは忙しくなるにつれすれ違いが重なり、ロミーが『ちょっとご主人貸して』(1963年)をハリウッドで撮影中に破局[78][79][80][# 9]ドロンは1964年8月、ナタリー・ドロンと結婚する。続く『何かいいことないか子猫チャン』(1964年)[# 10]も成功したとはいえず[83]、ロミーはヨーロッパに戻った。

結婚と出産

1965年4月、継父が出資したベルリンの商業ビルの完成セレモニーに出席した際、ドイツの舞台演出家・俳優のハリー・マイエン英語版と知り合い、恋愛関係となる[84][85]。マイエンには舞台女優の妻がおり、マルグリット・デュラス原作/脚本の『夏の夜の10時30分』(1965年)で演じた愛欲と三角関係をロミーは現実にも生きていた[86]

ロミーが妊娠したため、1966年5月、マイエンの離婚が成立[# 11]、2人は共演したテレンス・ヤング監督『トリプルクロス』(1966年)撮影中の1966年7月、南仏のサン=ジャン=カップ=フェラで正式に結婚。ロミーは妊娠4ヶ月だった[90][91][92]

1966年12月、ベルリンで息子ダーヴィット・クリストファーを出産。彼こそがロミーの幸福のすべてとなる[93][91][94]。以後しばらくロミーはベルリンで育児に専念する。のちマイエンの仕事の関係でハンブルクに転居[95][96]

ロミーがマイエンと結婚したのはドイツの舞台に立ちたいという願望も理由の1つであったが[88][97][98]、ロミーと結婚後のマイエンはことごとく舞台演出の仕事に失敗する[99][100]。ロミーが出演するはずの舞台プランも全て流れてしまい、他の演出家の元での舞台出演にはマイエンの私情で反対されることが重なると[88]、しだいにロミーはマイエンに幻滅を感じるようになる。[101][102]

フランスのトップ女優へ

2年近く映画界から離れ[103]、忘れられかけていたロミーに突破口を与えてくれたのは、かつての恋人アラン・ドロンだった。ドロンはジャック・ドレー英語版監督『太陽が知っている』(1968年)の相手役にロミーを指名[104]、。映画は撮影中に発生したマルコヴィッチ事件の話題性もあって、ロミーにとって久しぶりのヒット作となり、ロミーは劇的なカムバックを果たす[105]

1969年、『すぎ去りし日の…』ではじめてクロード・ソーテ監督とコンビを組む。この作品はかつての婚約者との共演やスキャンダルといった呼び物がないにもかかわらずヒットし[106]、続くソーテ監督『マックスとリリー』(1970年 )では男たちを手玉に取る娼婦を演じてこの映画も成功[107]、ロミーはフランスで70年代を体現する女優と目されるようになる[108]1972年ジョセフ・ロージー監督の『暗殺者のメロディ』で再度ドロンと共演。  

1972年、ヴィスコンティ監督が映画において、初めて史実に近いエリーザベトを描くことに成功した大作『ルートヴィヒ』でかつてそのイメージにつきまとわれ、トラウマともなった皇后エリーザベトを再び演じ、名匠ヴィスコンティが絶賛するほどの美しさと演技を見せた[109][110][# 12]

またこの年にはクロード・ソーテ監督の『夕なぎ』で、イヴ・モンタンと共演。2人の男の間でどちらを取るとも決められず、また決めるつもりもなく、男達のもとを去る強い女・ロザリーを演じて『ルートヴィヒ』と並ぶ生涯の代表作の1つとする[113][114]

しかし、フランスでのロミーの成功に反比例するかのように夫マイエンとの仲は冷却化する[115][116]。マイエンは仕事がうまくいかない憤りやロミーの成功への嫉妬からアルコールと薬物(バルビツール酸系の催眠薬であり鎮痛剤オプタリドン)に溺れるようになり、夫婦関係の苦悩からロミーもこの頃からオプタリドンを使用するようになる[117][118]。1972年、ロミーとマイエンは遂に別居。ロミーは息子を連れてフランスに居を移した[119][120]

1973年ピエール・グラニエ=ドフェール英語版監督『離愁』、フランシス・ジロー英語版監督『地獄の貴婦人』に主演。『地獄の貴婦人』でのロミーは金のために躊躇なく人を殺し、その死体を硫酸で熔解し処分、自慰シーンまであるというドイツ・シシー時代のロミーからは考えられないような役で[121]、しかもドイツ人役であることも加わり、故国ドイツからは「ずっとそっちに行ってろ!戻ってくるな!」といった内容の手紙がわんさかと寄せられた[122][123][124]

「私は女優である。シシーだって私とは何の共通する部分もなかった。私はシシーとは別人だったのと同様、この主人公とも別の人間である」[125][126]

ロミー・シュナイダー 1971年

2度のセザール賞

1974年アンジェイ・ズラウスキー監督『L'important c'est d'aimer』(日本未公開)で金のためにポルノまがいの映画に出ざるをえない落ちぶれた女優を演じる。演出についての意見の相違からくるズラウスキーとロミーの対立などから、撮影現場は荒れに荒れたが[127][128][129]、この映画でロミーは第一回セザール賞主演女優賞を獲得[130][128]、文字通りフランス映画界のトップ女優となる。

1975年の、ナチに凌辱されたうえ、火炎放射器で焼き殺される人妻を演じたロベール・アンリコ監督『追想』はフランス全土で336万人を動員し、ロミーの後半生では最大のヒット作となった[131]。この1975年7月ロミーとマイエンは正式に離婚。息子ダーヴィットの親権はロミーが持った[132][133]。そして74年夏頃から交際していた[134][135]個人秘書のダニエル・ビアシーニフランス語版ドイツ語版と1975年12月にベルリンで再婚[136][137][138]。マイエンはロミーより14歳年上だったが[92]、ビアシーニは逆に11歳年下だった[139]。再婚時ロミーは妊娠5ヶ月だったが[# 13]、その年の大晦日に流産してしまう[141]

1976年、ピエール・グラニエ=ドフェール監督の『限りなく愛に燃えて英語版』でギリシャを舞台に革命家との愛を貫こうとする外交官夫人を演じた後、ハインリヒ・ベル原作『雪に咲いたバラ』(アレクサンドル・ペトロヴィッチ英語版監督、日本ではTV放映のみ[142])に主演。ロミーのドイツ映画への出演は、アラン・ドロンとの出会いによりフランスへ移って以降の後半生では、事実上この1本のみである。映画の興行成績や批評は芳しくなかったが、ロミーは1977年ドイツ映画賞ローラ賞)の最優秀女優賞を受賞した[143]。これはドイツで受けた初めての、そして唯一の賞だった[144]

1977年『雪に咲いたバラ』の撮影後、再び妊娠していたロミーは南仏・ラマチュエル英語版に家を購入、出産に備える[145]。1977年7月、第二子サラ・マグダレーナを出産[146][147][148]

1978年、ロミー&クロード・ソーテ監督コンビの最後の作品となった『ありふれた愛のストーリー』でシングル・マザーとして出産を決意するヒロインを演じ、2度目のセザール賞主演女優賞に輝き[149]、またイタリアではダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞。ロミー・シュナイダーの女優人生の頂点であったが、以後この受賞によって責任を強く自覚しすぎてしまい、自分を追いつめてゆく結果にもなる[150][151]。この年4月、前夫のハリー・マイエンが絶望と失意の中、アルコールと薬で身を持ち崩し自殺[152][153]。この頃から次第にロミーの周囲にも暗い影が漂いはじめる[154]

崩落

1979年、フランスでのロミーの過去の納税義務が問題となったことを発端にフランス国税庁から莫大な額の追徴課税を受け、ロミーは事実上破産してしまう[155][156]。若くしてスターになり、金銭には無頓着でいつも人任せにしていたロミーは大きなショックを受け[157]、年齢を重ねることへの不安も重なり、動揺した彼女はしだいに自分自身や女としての自分の魅力にすら疑いを持ち始め、精神的にも肉体的にも不安定になり、アルコールと薬に手を出すようになる。同時に夫・ビアシーニとの間もギクシャクし始める[158]。ビアシーニによれば「80年代の初め、明らかにロミーは変わってしまった」[159]

1980年、フランシス・ジロー監督『華麗なる女銀行家』の時にはすでに、撮影中の出番の合間はトレーラーに引きこもり、一部の気の許せるスタッフにしか会おうとしなかった[160]。あるカットでクローズアップを何度も撮り直したとき、ロミーはこう言ったという。「ねぇ、はっきり言いなさいよ。このおばさん、まだきれい?」[161]

皮肉にもこの映画は成功し、ロミーの魅力はまた高く評価された[162][163]

ロミーは仕事でも私生活でも自信喪失に悩まされ、「私が50歳になるころ、あなたはようやく39歳。私が60歳になるころ、あなたはようやく49歳。うまくいくと思える?」といった発言を繰り返すロミーに年下の夫のビアシーニは徐々に苦痛を感じるようになる[164]。またオプタリドンの常用により自制心を失い、激しい不安の発作と被害妄想を繰り返すロミーにビアシーニは疲れはててゆく[165]

マルチェロ・マストロヤンニ共演の『Fantasma d'amore』(ディーノ・リージ監督 1980年)の撮影中、ロミーが現場アシスタントのロラン・ペタンフランス語版(その後『TAXi』などの映画プロデューサーとして活躍、ペタンもロミーより10歳年下だった[165])を愛人としたことで[165][166]、夫婦間の亀裂は決定的なものとなり[167][168][169]1981年3月、2人は離婚を決意、10月に正式に離婚する[170]

1981年5月、腫瘍のため、ロミーは右の腎臓を摘出する手術を受け、右腹には手術による25cmの傷跡が残る[171][172]

継父のビアシーニになついていた息子のダーヴィットは母の新しい愛人を拒絶し、母に反抗した。母の元を離れ、継父とその両親と暮らすようになり、苦渋と絶望が母ロミーの胸をさらに痛めつけることになった[173][174]

1981年7月5日、14歳のダーヴィットはたまたま留守だったビアシーニ両親宅の垣根を飛び越えたとき、足をすべらせ、鉄製の鋭い角棒に身を貫いて無残な事故死を遂げた[175][176][177]。4時間に及んだ手術の後、医師が小声で伝える。「遺憾ながら…」。その瞬間、ロミーの叫びが病院の廊下に響き渡った。ビアシーニが回想する。「何という叫びだったろう。金属のようにカン高い、絶望の叫び。私がこれまでの全生涯で耳にした、最も痛ましい声だった」[178]

数日後の葬儀はアラン・ドロンが手配した[179]。何百通という悔やみ状が届いたが、その中にはフランス大統領フランソワ・ミッテランのものも混じっていた[180]。黒い大きなサングラスをかけ、実弟に抱きかかえられたロミーの映像が残っている[178]

『サン・スーシの女』

ロミーがナチに追われ夫と共に殺害される女性と現代の女性の2役を演じた遺作・『サン・スーシの女[# 14]ジャック・ルーフィオ英語版監督)の撮影はダーヴィットの死後3ヶ月の1981年10月にベルリンで開始された。何度もロミーの病気や息子の死で撮影開始が延期されたが[181][182]、その企画の段階からロミーが関わり[183]、自身が演じることにこだわった、楽しみにしていた役であった[184][185]

息子の死にうちのめされ、心身ともにボロボロの状態だったが、ロミーにとってはカメラの前に立ってしゃにむに働くことだけが、自分に納得のいく唯一の治療だった[186]。劇中、ロミー演ずるエルザが引き取る少年・マックス役のウェンデリン・ウェルナー[# 15]との共演をロミーは不安に感じていた。死んだダーヴィットを思い出すからである[188][189]。したがってロミーとウェルナー少年との間は始めよそよそしいものだったが[190]、撮影が進むにつれ、少しずつ改善されていった。ウェルナーとのカットを全て撮り終えたころ、ロミーは少年を自宅に招き、のお守りをプレゼントした[191]。マックスがヴァイオリンで『亡命の歌』を弾き、エルザに微笑みかけるクリスマス・ディナーのシーンでは、痩せやつれたロミーのために何度もドレスの寸法を直さねばならず、最初のテストの時から感情を昂ぶらせたロミーはすぐに泣き崩れてしまった。何度も同じことが繰り返され、苦心の末ようやくカメラに収めることができたという[192]。撮影はパリ、ノルマンディと続き1981年12月末に終了した[187]。撮影終了後、ロミーは娘のサラ、ロラン・ペタンと共にセーシェルに旅行する[193]。帰国後の1982年3月、ロミーはパリから西へ40km、イヴリーヌ県の小さな村ボワシー=サン=ザヴォワール英語版の古い田舎屋敷を購入し[# 16]、新居改修完了までの仮住まいをパリ7区バルベ・ド・ジュイ通りのアパルトマンに据える[195][196]

4月14日の『サン・スーシの女』の封切りを控え、ロミーもプロモーションに参加、フランス国営テレビのインタビューにも答えている[197]

『サン・スーシの女』はパリ地区で51万人、フランス全土で196万人の観客を動員した[198]。次に出演する映画は、アラン・ドロンと共演のサスペンス映画『L'un contre l'autre』(『対決』ピエール・グラニエ=ドフェール監督)になる予定で、1982年6月1日から撮影が開始されるはずであった[199]

突然の死

1982年5月28日夜、ロミーはロラン・ペタン、およびペタンの知人夫妻と、モンパルナスで食事を共にした[200]。バルベ・ド・ジュイ通り11番地のアパルトマンに歩いて帰宅後、ロミーは「手紙を書くから先に寝ていて」[201]と翌5月29日1時半頃ペタンを先に寝かせた。その後、正確な時刻は不明だがペタンは目を覚まし、ロミーがそばにいないことに気づく。ロミーはリビングの肘掛椅子で眠っており、ペタンは起こさないよう苦労して、ベッドに運んだ[202]

朝7時半、虫の知らせで急に目が覚めたペタンはロミー・シュナイダーが死んでいることに気づく。ペタンはパニックになったが、救急車も心臓マッサージももう何の効果もなかった。寝室には空になったバルビツール催眠薬の容器、居間にはやはり空になったワインの瓶があった。検視の結果外傷はなく自然死と診断され、司法解剖は行われなかった。死因は心不全、死亡推定時刻は朝5時[203][204]

葬儀は6月2日、アラン・ドロンの手配でボワシー=サン=ザヴォワールの教会で行われ、親友のジャン=クロード・ブリアリ、6回共演しているミシェル・ピコリロマン・ポランスキーなどフランスの多くの映画人が参列したが、ドイツからの参列者は身内以外は殆どなかったという[205]。遺体は故国ドイツに戻ることなく、ボワシー=サン=ザヴォワールの墓地に息子ダーヴィットと共に埋葬されている[206][205]。墓碑には ロミーの本名「ローゼマリー・アルバッハ」と生年・没年月日のみが記され[207]、息子の死を信じたがらなかったロミーへの心づかいか、息子ダーヴィットには没年月日が記されていない[208][209]。ドロン自身はマスコミの騒ぎを避けるため葬儀を欠席し、6月14日に墓前で別れを告げた[210]。2017年には墓が暴かれる事件が起きている。[211]

1984年、フランス映画界の将来有望な若手女優に贈られるロミー・シュナイダー賞[212][# 17]が創設された。1999年、フランスの世論調査会社CSAの調査ではロミー・シュナイダーが「今世紀最高の女優」に選出される(2位がカトリーヌ・ドヌーヴ、3位がマリリン・モンロー、男優トップはジャン・ギャバン[213]2001年、時のロシア大統領ウラジーミル・プーチンは英国BBCの取材で、好きな女優は誰かと訊かれ、ちょっと考えてからロミー・シュナイダーの名を挙げた[214]2009年春、フランスのネットプレス・「ネチズン」が実施した調査でも「史上最高の女優」に選出されたのはロミー・シュナイダーだった(2位以下は、シモーヌ・シニョレアニー・ジラルドミシェル・モルガンエヴァ・ガードナーイザベル・アジャーニメリル・ストリープオードリー・ヘプバーンジュリア・ロバーツキャサリン・ヘプバーンなど)[214]

成長したロミーの遺児サラ・ビアシーニ英語版は2004年に女優としてデビュー[215]。2021年、母が亡くなったのと同じ43歳のとき、アラン・ドロン、ミシェル・ピコリ、クロード・ソーテ監督らに取材したロミーを題材にした小説『La beaute' du ciel』(『空の美しさ』)を発表した。[211]

2022年8月から東京・渋谷のBunkamuraル・シネマを皮切りに「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」と題して特集上映が日本全国で開催される。[216]

フランス イヴリーヌ県ボワシー=サン=ザヴォワールのロミーと息子ダーヴィットの墓

人物

Cocktail コクテール(カクテル)一重咲きながら華麗さが人気のつるバラ。このバラは1982年にフランスのメイアンによって作出。同年に没した彼女に捧げられた。

主な出演作品

公開年 邦題
原題
役名 備考
1953 再び白いライラックが咲いたら
Wenn der weiße Flieder wieder blüht
エフヒェン デビュー作
1954 女王さまはお若い
Mädchenjahre einer Königin
ヴィクトリア
1955 プリンセス・シシー
Sissi
シシー 2009年2月13日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー』
1956 若き皇后シシー[# 18]
Sissi - Die junge Kaiserin
シシー 2010年7月23日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート2 若き皇后』
1957 モンプチ わたしの可愛い人
Monpti
アンヌクレール
シシー ある皇后の運命の歳月
Sissi - Schicksalsjahre einer Kaiserin
シシー 2010年7月23日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート3 運命の歳月』
1958 制服の処女
Mädchen in Uniform
マヌエラ・フォン・マインハルディス
恋ひとすじに
Christine
クリスティーネ
セクシーガール
Die Halbzarte
ニコル
1960 太陽がいっぱい
Plein soleil
フレディの連れ カメオ出演[249]
1962 ボッカチオ'70
Boccaccio '70
プペ 第3話「仕事中」
審判英語版
The Trial
レニ
1963 勝利者
The Victors
レジーヌ
枢機卿
The Cardinal
アンネマリー
1964 ちょっとご主人貸して
Good Neighbor Sam
ジャネット
1965 何かいいことないか子猫チャン
What's New, Pussycat
キャロル・ウェルナー
1966 夏の夜の10時30分
10:30 P.M. Summer
クレア
トリプルクロス
Triple Cross
伯爵夫人
1968 地獄のかけひき
Otley
イモジェン
太陽が知っている
La Piscine
マリアンヌ
1970 夜明けの舗道
My Son My Lover
フランチェスカ
すぎ去りし日の…
Les Choses de la vie
エレーヌ
どしゃ降り
Qui?
マリナ
1971 ストライカー/愛と栄光のフィールド
Bloomfield
ニラ 日本ではビデオ発売のみ[250]
マックスとリリー
Max et les Ferrailleurs
リリー 当初日本ではビデオ発売のみ。タイトルは「はめる/狙われた獲物」。[250]2022年8月「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」の一環として日本劇場初公開。[216]
1972 夕なぎ
César et Rosalie
ロザリー
暗殺者のメロディ
The Assassination of Trotsky
ジタ・サミュエルズ
ルートヴィヒ
Ludwig
エリーザベト
1973 離愁
Le Train
アンナ
1974 ロミー・シュナイダーの 情事
Un amour de pluie
エリザベート 日本ではビデオ発売のみ[250]
地獄の貴婦人
Le Trio infernal
フィロメナ
1975 最も重要なものは愛
L'important c'est d'aimer
ナディーヌ セザール賞 主演女優賞 受賞、2022年8月「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」の一環として日本劇場初公開。[216]
追想
Le Vieux fusil
クレール
1976 限りなく愛に燃えて
Une femme à sa fenêtre
マルゴ・サントリーニ
1977 雪に咲いたバラ
Gruppenbild mit Dame
レニ 日本ではTV放映のみ[142]
1978 ありふれた愛のストーリー
Une histoire simple
マリー セザール賞 主演女優賞 受賞
1979 華麗なる相続人
Bloodline
エレーヌ・ロフ=マルタン
1980 華麗なる女銀行家
La Banquière
エンマ・エケール
* デス・ウォッチ英語版
La mort en direct(SFデス・ブロードキャスト)
キャサリン
1981 勾留
Garde à vue
シャンタル ソフト邦題が『レイプ殺人事件』『検察官』『検察官/レイプ殺人事件』等複数存在する。[251]2022年9月「生誕80周年記念 クロード・ミレール映画祭」の一環として日本劇場初公開。
1982 サン・スーシの女
La Passante du Sans-Souci
エルザ/リナ
2009 地獄
L'Enfer d'Henri-Georges Clouzot
1964年に制作が始まるも未完に終わったアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督作の残されたフィルムと関係者の証言で構成されたドキュメンタリー。2009年のカンヌ映画祭で公開され、2022年8月「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」の一環として日本劇場初公開。[216]

脚注

注釈

  1. ^ 『恋愛三昧』は題名まではついたが、当時の内務省の検閲を通らず、日本では公開されなかった。[4]
  2. ^ 幼少期、ロミーはナチス高官の子供たちのおやつに招かれ、その中にヒトラーの側近・マルティン・ボルマンの子供たちがいたこともあったという[12]
  3. ^ ヒトラーはマグダのファンだったことがあり[14][2]、マグダがベルヒテスガーデンの山荘でヒトラーや愛人のエヴァ・ブラウンと親しげにしているカラー映像が現存している。[15]
  4. ^ この後、マグダ・シュナイダーの映画出演作のほとんどは娘ロミーとの共演作である[29]
  5. ^ 日本では『プリンセス・シシー』は1959年に当時の皇太子御成婚記念映画として封切られたが、興行的にふるわず、2・3は公開されなかった[33]
  6. ^ このときのロミーのギャラは7500万旧フラン、ドロンはわずか30万旧フランだった[48]
  7. ^ ドロンは唯一「イッヒ・リーベ・ディッヒ(愛してる)」のドイツ語のみは覚えてきていた。[48][51]
  8. ^ 母マグダに反対されたロミーはこう答えたという。「お節介はやめてよ。いつどこで、どんな風にだろうと、自分の好きなように破滅してやるわ」[67][68]
  9. ^ ロミーによると「帰国すると、メッシーヌ通りの家は空だった。バラの花束が置いてあり、小さなカードが添えてあった。<ナタリーとメキシコへ行く。では。アラン>」[81][82]
  10. ^ ウディ・アレンのデビュー作である(脚本・出演)
  11. ^ ロミーは慰謝料の20万マルク(現在の1億~1億4千万円[87])を支払っている[88][89]
  12. ^ エリーザベト皇后の真実の生涯を映画化する企画がヴィスコンティとの間に持ちあがったが、実現はしなかった[111][112]
  13. ^ このときヴィスコンティが遺作『イノセント』(1976年)の出演を依頼したが、ロミーは断った。[140]
  14. ^ ラスト近くにわずかに登場するだけだが、ジャン・レノのデビュー作である。
  15. ^ ウェンデリン・ウェルナーは以後映画に出ることはなく、数学者となり2006年フィールズ賞を受賞している[187]
  16. ^ ロラン・ペタンはロミーの死後結婚し、2人の子供と一緒にそのままこの家に住み続けた[194]
  17. ^ 若手男優に贈られるジャン・ギャバン賞(1981年 - 2008年)およびパトリック・ドベール賞(2008年 -)と提携関係にある。
  18. ^ 今まで「プリンセス・シシー3部作」で日本で上映されたのは1作目の「プリンセス・シシー」のみで、第2作・3作は日本未公開だったが、2009年2月にLaLa TVで初放映。

出典

  1. ^ 佐々木、pp.6-8
  2. ^ a b ユルクス、p.14
  3. ^ 佐々木、pp.8-10
  4. ^ 日野、p.82
  5. ^ 佐々木、p.321
  6. ^ 佐々木、p.10
  7. ^ 佐々木、pp.16-19
  8. ^ ユルクス、p.12
  9. ^ 佐々木、pp.10-11,p.18
  10. ^ 佐々木、p.100,220
  11. ^ ユルクス、p.82
  12. ^ a b 佐々木、p.21
  13. ^ 佐々木、p.21,pp.221-223
  14. ^ 佐々木、pp.15
  15. ^ 佐々木、pp.222-223
  16. ^ 佐々木、pp.22-24
  17. ^ ユルクス、p.15
  18. ^ ザイデル、p.34
  19. ^ 佐々木、pp.24-28
  20. ^ ユルクス、pp.15-18
  21. ^ ザイデル、pp.35-52
  22. ^ 佐々木、p.31
  23. ^ ザイデル、p.46
  24. ^ 佐々木、p.34
  25. ^ ユルクス、pp.20-21,p.242
  26. ^ 佐々木、pp.31-34
  27. ^ ユルクス、pp.18-19
  28. ^ ザイデル、pp.54-77
  29. ^ 佐々木、p.200
  30. ^ 佐々木、p.35
  31. ^ ユルクス、p.26
  32. ^ 佐々木、p.43
  33. ^ 佐々木、p.44,322
  34. ^ 佐々木、p.52
  35. ^ 佐々木、p.44
  36. ^ ザイデル、pp.141-164
  37. ^ 佐々木、p.127,pp.132-133
  38. ^ ユルクス、p.60,pp.107-108
  39. ^ ザイデル、pp.377-378
  40. ^ ザイデル、p.145
  41. ^ 佐々木、pp.46-53
  42. ^ 佐々木、p.323
  43. ^ 佐々木、p.57
  44. ^ ユルクス、p.33,61
  45. ^ ザイデル、p.377
  46. ^ 佐々木、p.46
  47. ^ ザイデル、p.203,322
  48. ^ a b 佐々木、p.63
  49. ^ 佐々木、pp.62-63
  50. ^ a b ユルクス、pp.47-48
  51. ^ a b ザイデル、p.205
  52. ^ 佐々木、p.64
  53. ^ 佐々木、pp.66-67
  54. ^ ユルクス、pp.51-53
  55. ^ ザイデル、p.209
  56. ^ 佐々木、pp.68-69
  57. ^ ユルクス、pp.55-56
  58. ^ ザイデル、pp.212-213
  59. ^ 佐々木、pp.69-73
  60. ^ ユルクス、p.53
  61. ^ ザイデル、p.215
  62. ^ 佐々木、pp.74-75
  63. ^ ユルクス、pp.58-59
  64. ^ ザイデル、pp.217-219
  65. ^ 佐々木、p.76
  66. ^ ザイデル、p.219
  67. ^ 佐々木、p.77
  68. ^ ザイデル、p.220-221
  69. ^ 佐々木、pp.76-79
  70. ^ ザイデル、pp.219-229
  71. ^ 佐々木、pp.79-81
  72. ^ ザイデル、pp.233-237
  73. ^ 佐々木、p.83
  74. ^ ユルクス、p.64
  75. ^ a b ユルクス、p.80
  76. ^ 佐々木、p.97
  77. ^ 佐々木、p.103
  78. ^ 佐々木、pp.107-110
  79. ^ ユルクス、pp.83-86
  80. ^ ザイデル、pp.253-264
  81. ^ 佐々木、p.108
  82. ^ ザイデル、p.380
  83. ^ 佐々木、p.113
  84. ^ 佐々木、pp.118-120
  85. ^ ユルクス、pp.97-98
  86. ^ 佐々木、p.121
  87. ^ 佐々木、p.326
  88. ^ a b c 佐々木、p.122
  89. ^ ユルクス、p.103,137
  90. ^ 佐々木、p.124
  91. ^ a b ユルクス、p.103
  92. ^ a b ザイデル、p.270
  93. ^ 佐々木、p.128
  94. ^ ザイデル、p.284
  95. ^ 佐々木、p.146
  96. ^ ユルクス、p.130
  97. ^ ユルクス、p.108
  98. ^ ザイデル、pp.279-280,p.294,306,pp.315-316,p.343
  99. ^ 佐々木、pp.146-147,p.149,158
  100. ^ ユルクス、pp.126-127,p.130
  101. ^ 佐々木、p.133
  102. ^ ザイデルpp.330-331
  103. ^ ザイデル、p.292,297
  104. ^ 佐々木、p.135
  105. ^ 佐々木、pp.138-139
  106. ^ ユルクス、pp.127-128
  107. ^ 佐々木、p.152
  108. ^ 佐々木、p.145
  109. ^ 佐々木、p.161
  110. ^ ユルクス、p.134
  111. ^ 佐々木、p.162
  112. ^ ユルクス、p.286
  113. ^ 佐々木、pp.162-164
  114. ^ ユルクス、p.138
  115. ^ a b ユルクス、p.129
  116. ^ ザイデル、pp.330-333
  117. ^ 佐々木、p.147
  118. ^ ユルクス、pp.109-110,p.138
  119. ^ 佐々木、pp.174-176
  120. ^ ユルクス、pp.140-142,p.156
  121. ^ ザイデル、p.337
  122. ^ 佐々木、pp.183-184
  123. ^ ユルクス、pp.158-159
  124. ^ ザイデル、p.341
  125. ^ ユルクス、p.160
  126. ^ ザイデル、pp.334-335
  127. ^ 佐々木、pp.187-191
  128. ^ a b ユルクス、p.161
  129. ^ ザイデル、p.336
  130. ^ 佐々木、pp.229-230
  131. ^ 佐々木、p.208
  132. ^ a b 佐々木、p.226
  133. ^ ユルクス、pp.136-143,p.179
  134. ^ 佐々木、pp.195-199
  135. ^ ユルクス、pp.162-163,166-170
  136. ^ 佐々木、pp.227-228
  137. ^ ユルクス、p.184
  138. ^ ザイデルp.353
  139. ^ 佐々木、p.166
  140. ^ 佐々木、p.227
  141. ^ 佐々木、p.228
  142. ^ a b 佐々木、p.361
  143. ^ 佐々木、pp.237-238
  144. ^ ユルクス、pp.198-199
  145. ^ 佐々木、pp.239-240
  146. ^ 佐々木、p.241
  147. ^ ユルクス、p.214
  148. ^ ザイデルp.364
  149. ^ ユルクス、p.223
  150. ^ 佐々木、pp.253-254
  151. ^ ザイデルp.367
  152. ^ 佐々木、pp.255-257
  153. ^ ユルクス、p.110,pp.223-228
  154. ^ 佐々木、p.269
  155. ^ 佐々木、pp.261-263
  156. ^ ユルクス、pp.173-174,200-208
  157. ^ ユルクス、p.73,143,166,240
  158. ^ ザイデルp.375
  159. ^ 佐々木、pp.263-264
  160. ^ 佐々木、pp.266-267
  161. ^ ユルクス、p.246
  162. ^ 佐々木、pp.267-268
  163. ^ ユルクス、pp.245-246
  164. ^ 佐々木、p.245,275
  165. ^ a b c 佐々木、p.276
  166. ^ ユルクス、pp.248-249
  167. ^ 佐々木、p.246,pp.278-279
  168. ^ ユルクス、pp.253-258
  169. ^ ザイデルp.376,379,383
  170. ^ 佐々木、p.330,371
  171. ^ 佐々木、p.283
  172. ^ ユルクス、p.277
  173. ^ 佐々木、p.284-288
  174. ^ ユルクス、pp.218-219,251-252,p.254,pp.256-257
  175. ^ 佐々木、pp.288-289
  176. ^ ユルクス、pp.278-279
  177. ^ a b 岸、p.216
  178. ^ a b 佐々木、p.289
  179. ^ ユルクス、p.279
  180. ^ ユルクス、p.280
  181. ^ 佐々木、p.283,284,291
  182. ^ ユルクス、p.264,277
  183. ^ 佐々木、pp.281-282
  184. ^ 佐々木、p.284
  185. ^ ユルクス、p.276
  186. ^ ユルクス、p.281
  187. ^ a b 佐々木、p.298
  188. ^ 佐々木、p.294
  189. ^ ユルクス、p.283
  190. ^ 佐々木、pp.294-295
  191. ^ 佐々木、pp.297-298
  192. ^ 佐々木、p.297
  193. ^ ザイデル、p.387
  194. ^ ユルクス、p.317
  195. ^ 佐々木、p.299
  196. ^ ユルクス、pp.6-7,p.290
  197. ^ 佐々木、pp.300-303
  198. ^ 佐々木、p.303
  199. ^ 佐々木、p.304
  200. ^ 佐々木、p.308
  201. ^ 岸、p.217
  202. ^ 佐々木、pp.308-309
  203. ^ 佐々木、pp.308-310
  204. ^ ユルクス、pp.5-7
  205. ^ a b ユルクス、p.39
  206. ^ 佐々木、pp.311-312
  207. ^ ユルクス、p.243
  208. ^ 佐々木、p.313
  209. ^ ザイデル、p.386
  210. ^ 佐々木、pp.312-313
  211. ^ a b ハースト婦人画報社『ELLE JAPON』No.455 2022年9月号、2022年、104-109頁。 
  212. ^ http://french.rose.ne.jp/history/festival_etc/romy_schneider.html[リンク切れ]
  213. ^ 佐々木、p.372
  214. ^ a b 佐々木、p.375
  215. ^ 佐々木、p.330
  216. ^ a b c d 『没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭』公式サイト”. romyfilmfes.jp. 2022年12月31日閲覧。
  217. ^ ユルクス、p.316
  218. ^ 佐々木、p.97,274
  219. ^ ザイデルp.249-250
  220. ^ 佐々木、p.130
  221. ^ ユルクス、p.108,262
  222. ^ 佐々木、pp.208-209,p.273
  223. ^ 佐々木、p.267
  224. ^ 佐々木、p.189
  225. ^ ユルクス、p.113,246
  226. ^ 佐々木、pp.50-51
  227. ^ ユルクス、pp.47-49
  228. ^ ザイデルp.207
  229. ^ 佐々木、p.149
  230. ^ 佐々木、p.174
  231. ^ 佐々木、pp.192-194
  232. ^ ユルクス、p.126
  233. ^ a b 佐々木、p.53
  234. ^ ユルクス、p.35,47
  235. ^ 佐々木、p.169
  236. ^ ユルクス、p.117,pp.139-140,p.158
  237. ^ 佐々木、p.132
  238. ^ ユルクス、pp.125-126,p.160
  239. ^ ユルクス、pp.37-38,119-123,124-125,p.313
  240. ^ 佐々木、p.322
  241. ^ 佐々木、pp.154-155
  242. ^ ユルクス、p.64,131
  243. ^ 佐々木、p.199
  244. ^ 佐々木、pp.115-116,p.258
  245. ^ 岸、p.218
  246. ^ 佐々木、p.84,pp.201-202
  247. ^ ユルクス、p.183,214
  248. ^ ザイデルpp.240-241
  249. ^ 佐々木、p.338
  250. ^ a b c 佐々木、p.327
  251. ^ 佐々木、p.329

参考文献

  • 日野康一編 『ロミー・シュナイダー/ラヴェンダーの香り、慕情のひと』 シネアルバム (55) 芳賀書店、1977年
    • ロミーは生前、この日本語の本をバッグに入れ、ボロボロになるまで自分のカタログがわりに使っていたという(文藝春秋編 『わが青春のアイドル/女優ベスト150』 p.465、日野の回想より。(文春文庫、1990年))。
  • 岸恵子 『巴里の空はあかね雲』新潮文庫、1987年(自伝的エッセイ。初版新潮社、1983年)
  • 『ロミー・シュナイダー/恋ひとすじに』 レナーテ・ザイデル編、瀬川裕司訳、平凡社、1991年
  • ミヒャエル・ユルクス 『ロミー・シュナイダー事件』平野卿子訳、集英社、1996年
  • 佐々木秀一 『ロミー/映画に愛された女 女優ロミー・シュナイダーの生涯』国書刊行会、2009年

関連サイト

外部リンク

Kembali kehalaman sebelumnya