ヴァイキングの著名な戦闘 : スヴォルドの海戦 を描いた絵画
ヴァイキング (英 : Viking 、典 : viking 、独 : Wikinger )とは、ヴァイキング時代(Viking Age 、800年 - 1050年 )と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ 沿海部を侵略したスカンディナヴィア 、バルト海 沿岸地域の武装集団を指す言葉。
通俗的には、ヴァイキングは角のある兜を被った海賊 や略奪 を働く戦士であるとされるが、このイメージは後世の想像の影響が強く、実際には略奪 を専業としていたのではなく交易民でもあり、故地においては農民 であり漁民 であった。
各地に進出し、北ヨーロッパの歴史 に大きな影響を残したが、次第に各地に土着してゆくとともに海上の民としての性格を失い、13世紀までには、殆どのヴァイキングは消滅した。
名称
ヴァイキングという呼称の語源は古ノルド語 : víkingr (氷語 : víkingur 、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語 : vík (氷語 : vík )は湾 、入り江 、フィヨルド を意味する。スカンジナビア半島 一帯に点在するフィヨルド のことをヴィークと呼んだため、その「ヴィークの人々」を指して「ヴァイキング」と呼ぶようになったと考えられている。後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島 、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からはノルマン人 とも呼ばれる。
また、『サーガ 』や『エッダ 』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」「航海」「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある。
背景
彼らは北方系ゲルマン人 で、9世紀に入って侵略などを活発化させた。どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。
現在の説
ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期 (10世紀 - 14世紀 )付近にはじまり、小氷河期 (14世紀 半ば - 19世紀 半ば)には収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。
キリスト教と宗教的対立
ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーン の蹂躙は、カール大帝 によるザクセン戦争 、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumézilはヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている[要出典 ] 。Rudolf Simek教授は『初期のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない』と分析する。カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェー ではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは考えられる[要出典 ] 。
技術的優位性からの富を求めた侵略
ヴァイキングは通商・貿易を生業としていた民族である。そのため、ヴァイキングはヨーロッパの中世初期頃から東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるものである。
その他の説
人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルド に平地は少ないため海上に乗り出すしかなく、デンマーク では平坦地はあったが土地自体が狭かった。スウェーデン は広い平坦地が広がっていたが集村 を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ 地帯で論外であった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという仮説である。しかし、生産性が低く土地が貧しいのなら出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。
人口過剰説として、中世の温暖期 も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。
大陸ヨーロッパ ではゲルマン民族 移動など民族大移動 の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに南下して付け入ったという説もある。
能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかったというものである。
風俗
史実に近い形で描かれたヴァイキング。ただしここに描かれている人物はノヴゴロド公 リューリク であり、半伝説的な人物である事には留意されたい。
ヴァイキング戦士の格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイル が一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特徴となる。
ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。
族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。
ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍 の騎士の一般的な装備ともなっている。
ステレオタイプ
ステレオタイプなヴァイキング
一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプ として知られている[ 2] 。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない。角のついた兜は、古代ローマ 時代にローマと敵対したケルト人 の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に分かれていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。
ヴァイキングは広く金髪 であると言うイメージを持たれている。実際には多くのヴァイキングは茶色い髪を持ち、スカンディナヴィア 出身者以外の遺伝子の影響も大きく、血統内にはアジアや南欧 由来の遺伝子も存在した[ 4] 。
舟
オーセベリ船 (ヴァイキング船博物館 、オスロ)
ヴァイキングは「ロングシップ 」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人 諸王国や大陸 のフランク王国 も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。845年のヴァイキングによるパリ包囲などがいい例であろう。ロングシップのほか、戦闘にも貿易にも使用できたと考えられているクナール など、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた。
ヴァイキング船 については、オスロ市ビグドイ 地区にあるヴァイキング船博物館 、およびデンマークのロスキレ にあるヴァイキング船博物館 が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習(船葬墓 )があり、ノルウェー・ヴェストフォル県 トンスベルグ 近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかったオーセベリ船 や、[要出典 ] 同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ墳丘 で見つかったゴクスタ船 など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした。オスロのヴァイキング船博物館には、オーセベリ船およびゴクスタ船、トゥーネ船 が展示されている。
商業
ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海 やカスピ海 、北アメリカ大陸のニューファンドランド島 にも到達している
ヴァイキングは通常の商業も活発に行っており、ユトランド半島東岸のヘーゼビュー や、スウェーデンのビルカ は商業拠点として栄えた。ビルカからの交易ルートは、例えばブリテン諸島 、イベリア半島 、イタリア半島 、バルカン半島 、ヨーロッパロシア 、北アフリカ に達した。9世紀のイスラム・ディレム 銀貨がバルト海 のゴトランド島 から大量に発掘されるなど、西アジア への交易路はルーシ の地を経て東ローマ帝国 やイスラム帝国 へと出る、いわゆるヴァリャーグからギリシアへの道 によって東方世界とつながっており、コンスタンティノープル との貿易も、ヴァイキングの通商路である。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。
歴史
リンデスファーン修道院の廃墟
西暦700年代 末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島 やフリースラント への略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。
そして8世紀から11世紀にかけていた。
本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年 の北部イングランド のリンデスファーン修道院 襲撃からとされる。以後、795年 にはヘブリディーズ諸島 のアイオナ修道院 を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀 半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。
中世初期の文献資料 は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)とペスト (黒死病)は二大脅威だったのである。
793年 、ノルマン人と思われる一団によって、ブリテン島 東岸のリンディスファーン修道院 が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、西ヨーロッパ の記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。
ヴァイキングは、9世紀にフェロー諸島 、次いでアイスランド を発見した。そしてアイスランドからグリーンランド 、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行してイスタンブール に進出していった。
ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダ にあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川 の河口に近いナント を襲った。10世紀に入るとパリ がヴァイキングにより包囲され、ロワール川流域も荒廃した。10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロ が西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3世 によってキリスト教 への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川 流域に領土を封じられた。これがノルマンディー公国 の始まりである(なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1世 がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝 を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエスト である)。
ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる。
各国での歴史
デンマークおよびノルウェー
デーンロウ:黄色の部分
ヴァイキングの入植地オーフス 再現モデル
アングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングはデーン人 (Daner, Dane) と呼ばれ、ヴァイキングの代名詞となった。また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。
804年 、フランク王国のカール大帝 はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王ゴズフレズ は、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市であるヘーゼビュー へと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、810年 にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代のヘミング の代には一時和平が成立したものの、834年 にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。841年 には、フランク王ロタール1世 はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する。しかし、デーン人の南進は収まらず、さらにフランク王国自体が王位争いにより3分割されるに及んで、ヴァイキングの活動はさらに活発になった。
840年代にはロワール川 河口やナント 、ブルターニュ を襲い、850年代にはジブラルタル海峡 を回って地中海 にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。863年 にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。
セーヌ川 (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス 各地へと出撃した。851年 にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、865年 にはふたたびイングランドに来襲してノーサンブリア からイースト・アングリア 一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、ウェセックス 王国のアルフレッド大王 は877年 にデーン人を撃退し、翌878年 のウェドモーアの和議 によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域(デーンロウ )とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン 諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年 にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロ の下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国 を形成することになる。
ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた。後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる[ 注釈 1] 。 [要出典 ]
ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。11世紀 のデンマーク王族カヌート は父がヴァイキングを先祖とするデーン人 で母が西スラヴ のポーランド人 の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国 の主となり、カヌート大王 (在位1016年 - 1035年)と呼ばれる。しかしその後、1035年 にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年 にはエドワード懺悔王 がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公 ギョーム は1066年 にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト )し、ノルマン王朝 を築いた。
一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年 ごろより聖地巡礼 の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵 としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。こうしたなか、ノルマンディー の騎士ロベール・ギスカール は1059年 、プッリャ 公となり、やがて南イタリア を統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略。(ノルマン・東ローマ戦争 )さらに1076年 までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリア を占領し、ノルマン朝 (オートヴィル朝 )を開いた。1130年 にはルッジェーロ2世 が王位につき、シチリア王国 が成立した(ノルマン人による南イタリア征服 )。
イタリア に渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモン は、第一次十字軍 に参加し、1098年 にアンティオキア公国 を建国した。
ノース人の北方進出
インゴールヴル・アルナルソン
シンクヴェトリルのアルシング開催地
ランス・オ・メドーの家
ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。8世紀 にはオークニー諸島 やシェトランド諸島 、9世紀にはフェロー諸島 やヘブリディーズ諸島 、東アイルランド に進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡 を経て南下するものが主だった。9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリン が建設された。
フローキ・ビリガルズソン らの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年 には、インゴールヴル・アルナルソン がアイスランド へと入植し、レイキャヴィーク に農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。これらの入植は、やがて『植民の書 』と呼ばれる書物にまとめられた。930年 、アイスランド各地のシング(民会)の代表がシンクヴェトリル へと集結し、全島議会アルシング を開催し、以降毎夏開催されるようになった。
985年 に赤毛のエイリーク がグリーンランド を発見し、ここでもただちに入植がはじまった。その息子レイフ・エリクソン は北アメリカ にまで航海し、そこをヴィンランド と命名した。1000年 のことである(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化 )。この後もヴィンランドへは数度航海が試みられ、ソルフィン・カルルセフニ は再到達に成功している。1960年 にはカナダ のニューファンドランド にあるランス・オ・メドー でノース人の入植地跡が発見され、この到達が事実であることが確認された。これらの航海は、『グリーンランド人のサガ 』および『赤毛のエイリークのサガ 』というふたつのサガによって語り継がれ、この二つのサガを総称してヴィンランド・サガとも呼ばれる。しかし、このヴィンランド植民の試みは、スクレーリング と彼らの呼んだ先住民との対立によって潰え、ランス・オ・メドーも数年で放棄された。グリーンランドも数世紀植民地を維持したものの、寒冷化による食糧事情の悪化によって1430年 前後に壊滅し、グリーンランド以西の植民地 活動は最終的には失敗に終わった。
なお、開拓者の消滅後もデンマーク=ノルウェー王国 は、グリーンランドを自国の領有地であると考え続け、18世紀以降、この島に対するデンマークの領有権主張の始まりとなった(デンマークによるアメリカ大陸の植民地化 )。またノルウェー人も、20世紀初頭に「赤毛のエイリークの土地」と呼んでグリーンランドの領有権を主張していたが、現在、グリーンランドはデンマークの自治領 となっている。
スウェーデン
地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシアへの道 」を示す
スウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人 と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、8世紀 後半から9世紀半ばにかけてあったとされる都市国家 群のルーシ・カガン国 の建国であった(国家群の民族構成には、ノース人 の他、バルト人 、スラヴ人 、フィン人 、テュルク系民族 も含まれている)。彼らはフランク王国 の「サンベルタン年代記 」などでノース人、あるいはスウェーデン人 であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、リューリク がノヴゴロド公国 で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『ルーシ年代記 』にみられる「ルーシ 」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題 である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、リガ湾 やフィンランド湾 に流れ込む河川を遡り、9世紀 にはバルト海 と黒海 を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国 の都コンスタンティノープル にまで姿を現している(839年 頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国 経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年 にはドニエプル川 を南下し、リューリクの息子イーゴリ が、オレグ を後見人にキエフ大公国 を建国。彼らはヴァリャーグ と呼ばれる。またサガ (スノッリ・ストゥルルソン 「ヘイムスクリングラ 」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀 のスウェーデンのエリク王 (族王)の時代には、エストニア とクールラント (今のラトヴィア の一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人 も参加していたとフィンランド では主張されているが、史実的な裏付けはない。
フリースラント
この時期においてフリースラント といえば、現在のブルッヘ からユトランド半島 西岸までの領域を指す。この領域はフリースラント・フランク戦争 の影響で徐々にフランク人 の勢力下に入りつつあったが、フランク人らによるキリスト教化政策や文化的同化政策はうまく進んでいなかった。それ故にしばしばフリースラントの住民ら自身がヴァイキングとして周辺を荒らしまわることもあった。
それと同時期に、フリースラントの諸都市が北欧のヴァイキングに襲撃され始める。ヴァイキングらはフリースラント北部のen: Wieringen 地域に拠点を構えることが多かった。またヴァイキングの首長がフリジア公 などと名乗りフリースラントを実質的に支配下に置くこともあった。
後裔国家
ルーシ原初年代記 によるとリューリクとその息子たちは東スラヴ の各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年 から880年 にかけてノヴゴロド公国 やキエフ大公国 に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当に実在したヴァイキングだったのかを含めて、15世紀 まで不確実性が残るが、いずれにせよ、この一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人 に同化 して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世 までがヴァリャーグ人時代であったと言える(ノルウェー・ヴァイキングであるオーラヴ・トリグヴァソン や後にノルマン・コンクエスト に関わるハーラル3世 が親衛隊 としてキエフ大公国に仕えた他、ルーシにおける半伝説的存在であったリューリクを高祖とするリューリク朝 が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年 まで存在していたなどの影響が残った)。リューリクは、862年 にラドガ を自分の都と定めたが、ヴァイキングたちにとってもラドガは東方の拠点の一つでもあり、ラドガの周囲にはリューリク及びその後継者たちのものとされる陵墓も現存する。990年代 にノルウェー・ヴァイキングのエイリーク・ハーコナルソン がラドガ湖 を襲い、ラドガの街に火をかけたことがサガ に記されているほか、11世紀 にスウェーデン王女とノヴゴロド公ヤロスラフ1世 が結婚した時の条件として王女のいとこのスウェーデン貴族にラドガの支配を任じたことが年代記とサガに記されている。また、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認でき、少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキル とインゲ1世 )が青少年期をラドガで過ごしている。しかし12世紀 以降、ラドガはノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地となり、さらに正教会 の教会と要塞 が建てられ、北欧との関係は薄れていった。
ノルウェー人の築いた植民地 は、アイスランド の植民の成功を除き、全て13世紀 から16世紀 までに、北欧 本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー 」、「金髪 のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。
こうして初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神は失われてしまったのである。海賊、交易民的な性格を失っていったヴァイキングは、次第にノルマン人と呼ばれる頻度が多くなっていく。
イングランド 、ノルマンディー、シチリア 、あるいは東方に向かったヴァイキング・ノルマン人たちは、その地に根付き、王 となり、貴族 となった。やがてノルマン人としてのアイディンティティを喪失し、現地に同化していった。
一方でヴァイキングの故地たる北欧においても、徐々に強固な国家形成がなされていき、その住民たちも、デーン人、スヴェア人、ノース人、アイスランド 人へと、それぞれの国家の国民、民族として分離していく。
こうして、13世紀 までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅していく事になる。
考古学者による研究では、ヴァイキングの内、ノルウェー人 の祖先は主にアイルランド 、アイスランド 、グリーンランド へ、スウェーデン人 の祖先はバルト諸国 へ、デンマーク人 の祖先はスコットランド 、イングランド へ移住したとされる[ 14] 。
戦い
タイムライン
対バイキング
著名人物
関連作品・ジャンル
上述の通り、角兜・毛皮のベストなどの、史実と異なるヴァイキングのステレオタイプの風俗が採用されている作品が多い。
漫画
映像
ゲーム
The Fury of the Norsemen: Micro history 4 - メーカーMetagaming、デザイナーK. Hendryxの1980年のゲーム。10 - 11世紀前後に活発に活動した、北欧のヴァイキングたちが蛮族として登場する戦略級 - 作戦級のウォーゲームは色々とあるが、非常に珍しい(おそらく唯一の)ヴァイキングのその襲撃行動そのものをシミュレートした作品。
アサシン クリード ヴァルハラ - ヴァイキングの侵攻が活発だった9世紀ヨーロッパを舞台としたゲーム。主人公のエイヴォルが属する戦士団がヴァイキングである他、ゲーム内でヴァイキングの装備、文化や建築が再現されている。
その他
スカンジナビア航空 は、創設以来の伝統として、保有する航空機一機ずつに全て "○○ Viking" とヴァイキングの英雄の名を愛称として名づけており、北欧の民族としての誇りを強調する形を取っている。
ウップヘリーアー (英語版 ) - 1890年代 からシェトランド諸島 で行われているヴァイキングの伝統を称える火祭り [ 15] 。
日本の飲食店では、食べ放題 メニューがしばしば「バイキング」と呼ばれる。これは北欧の食べ放題メニューであるスモーガスボードを日本に導入した際、日本人には馴染みが無い言葉で発音もしにくい事から「北欧といえばバイキング」という連想で命名されたものである[ 16] 。
ノースマン 導かれし復讐者 - 2022年製作のアメリカ映画。10世紀のアイスランドを舞台に、ヴァイキングの王子アムレート が、父親を殺した叔父に復讐を誓う。
読書案内
日本語で記述された基本的な文献を出版年の新しい順に並べた。
脚注
注釈
^ 例えば11世紀におけるノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランドの征服は、ノルマン・コンクエスト 、つまり「ノルマン人による征服」と呼ばれる。だが9世紀においての、デーン人によるイングランド侵略、デーンロウの成立は、ノルマン・コンクエストとは呼ばない。
出典
参考文献
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
ヴァイキング に関連するメディアがあります。
外部リンク