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一色 昭孝(いっしき あきたか)は、戦国時代から江戸時代にかけての公家、武将。江戸幕府高家。
駿河守、民部少輔、従五位上。少納言。
唐橋家の出身で、初めは唐橋在通を名乗り、晩年には唐橋家に復した。『寛政重修諸家譜』(寛政譜)は、一色氏(菅原氏)の項の冒頭で、「元は唐橋たり。在通武家につかふるの際は外家(母の実家[3])の号一色を称し」と記している。系図は在通()から始めており、「初昭孝()」としている。
生涯
唐橋在名(唐橋在数の子)の二男として生まれた。母は、一色左京大夫某の娘。
足利義昭に仕え、諱の字と家紋を与えられた。義昭没落後は徳川家康に仕え、采地1000石を与えられ、高家となった。
慶長年間(1596年〜1615年)、京都において唐橋家を相続し、以後、隔年で在府した。
元和元年(1615年)7月2日、死去。秋庵光忍月窓院と号した。
唐橋在通
永禄8年(1565年)1月17日、唐橋在名の二男として生まれた。母は家女房。
天正6年(1578年)4月16日、14歳のとき元服し、同日、正六位上に叙された。同日、文章得業生となった。
慶長16年(1611年)4月21日、48歳のとき、従五位下、同17年(1612年)1月5日、従五位上に叙される。同月11日には民部少輔に任じられた。
慶長20年(1615年)7月7日、死去(『大日本史料』所収「唐橋家譜」)(『日本古典全集』所収「諸家伝」では7月2日、『大日本史料』所収「土御門泰重卿記」および「言緒卿記」では、7月3日となっている)。52歳。
父親について
在通の父親について、寛政譜では、唐橋在数の二男としている。しかし、『大阪府史』によれば、在数は明応5年(1496年)1月7日、49歳のとき、九条政基・尚経父子に殺害されている。在通の生年を考慮すると、在数ではなく、在名を父とするのが適当とする。また、寛政譜で、在通は足利義昭に仕えたとしており、この点でも、在数の時代とは隔たりがある。
子女
出典は『寛政重修諸家譜』による
脚注
参考文献