三好 応岸(みよし おうがん、天保3年7月15日(1832年8月12日) - 1909年(明治42年)8月2日)は江戸時代後期・明治時代の画家。伊予国宇和島出身。三好応山の次男。
経歴
天保3年(1832年)7月15日伊予国宇和郡本町(愛媛県宇和島市本町)に紺屋三好応山の次男として生まれた。通称は又八郎。幼少期から絵を好んで父に画業を学び、兄が紺屋業を継ぐと、自身は分家して画業を本業とした。父から「応」字を継いで応岸と号し、また画舫楼の号を継承した。豪商としての繋がりから宇和島藩主伊達宗徳に厚遇を受け、「月下の山犬」を称賛されて3度揮毫したという。
讃岐国那珂郡郡家村(香川県丸亀市郡家町)の大西雪渓に絵を学んだ。同地域の資料は応岸を同国三豊郡(同県三豊市)の人とするが、同郡に滞在歴があったかどうか不明。また「徴山」に絵を学んだともされるが、父応山やその師とされる土佐鉄山(不詳)の誤字か不明。1882年(明治15年)第1回内国絵画共進会に「幽霊」「夜ノ浪」を出品した際には写生派、1884年(明治17年)第2回内国絵画共進会に「狼」「山水」を出品した際には円山派を称している。
1909年(明治42年)8月2日78歳で死去した。丸穂村金剛山に応山・応岸の墓があるという。弟子に静岸がいる。
作品
作品名
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技法
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形状・員数
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寸法(縦x横cm)
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所蔵
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年代
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落款
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印章
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備考
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宇和島・江戸図屏風
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紙本着色
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六曲一双
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各隻95.0x262.0
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愛媛県美術館
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明治後期
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「應岸」
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右隻に白文方印「畫舫漁夫」、左隻に同「画舫樓」
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右隻は元禄期の宇和島城搦手門・豊後橋・櫓、樺崎住吉神社等を南側から、左隻は富士山を背景に江戸隅田川・永代橋・寛永寺・大名屋敷・木場・行徳塩田等を海側から描く。2014年(平成26年)3月収蔵。
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七夕図
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紙本着色
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一幅
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小品
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今治市法華寺
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「應岸」
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「應岸」
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鴛鴦図
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紙本着色
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一幅
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今治市法華寺
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「應岸」
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「画舫樓」「應岸之印」
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虎図
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絹本墨画淡彩
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一幅
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今治市法華寺
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「應岸」
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「畫舫」
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松鷹図
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紙本墨画淡彩
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一幅
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今治市法華寺
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「應岸」
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「画舫樓」「應岸之印」
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石橋山大合戦図
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大絵馬
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鬼北町山神王神社
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1899年(明治32年)奉納
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「應岸」
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湊川合戦図屏風
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柏原市立歴史資料館[13]
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1891年(明治24年)?[13]
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「六重之翁」[13]
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脚注
- ^ a b c やまげ (2016年10月25日). “柏原市立歴史資料館”. やまげのおでかけ暴走紀行. 2018年11月28日閲覧。
参考文献