京急500形電車
京急500形電車(けいきゅう500がたでんしゃ)は、1951年(昭和26年)3月から1986年(昭和61年)8月まで在籍した京浜急行電鉄の電車。 概要第2次世界大戦後の混乱から立ち直りつつある1951年、前年に運転開始したハイキング特急などに運用することを念頭に戦後初の2扉セミクロスシート車として全電動車の2両編成5本が製造された。赤い車体に窓廻り黄色の塗装を初めて採用、赤茶色の車両が多かった当時は大きな注目を集め、1957年(昭和32年)までの京急の標準塗装となった。製造メーカーは川崎車輛(現・川崎重工業)および東急横浜製作所の2社である。 翌1952年(昭和27年)には同形の制御車クハ550形が製造され、デハ500形とクハ550を組み合わせた2両編成10本となった。後年クハ550形の中間車化(サハ550形)による4両編成化、車体更新による4扉ロングシート化、半数のサハ550形廃車による3両編成化を経て、1986年8月まで運用された。 特記のない限り、以下の文中では各種文献に倣い、京急本線上で南側を「浦賀寄り」または「浦賀方」、北側を「品川寄り」または「品川方」、東側を「海側」、西側を「山側」と呼ぶ。編成番号は浦賀方先頭車の車両番号で代表する。「1000形」は1959年(昭和34年)登場の1000形(初代)、「800形」は1978年(昭和53年)登場の800形(2代)をさす。600形、700形についてはそれぞれ(初代)(2代)で識別するものとする。 車体車体長17,500mm、車体幅2,700mmの半鋼製車体。窓の上下のウィンドウヘッダー・ウィンドウシルが京急の電車として初めて埋め込まれた。 窓配置はd1(1)D5D(1)1(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)とし、客用扉に隣接する左右両端の窓各1枚分と車端部を乗降を円滑にするためにロングシートとし、クロスシートは6組24席が設けられた。 側窓は戸袋窓が高さ1,000mm、幅900mm、窓枠を介して上下2段に分割されていた。それ以外が高さ1,000mm、幅1,200mmの2段上昇窓で、下段中央を横切る位置に保護棒が設置されている。ドアは鋼製プレスドアとされ、側窓と同じ位置に中桟が入っていた。 前面は当時流行のいわゆる「湘南形」の正面2枚窓だが、窓は1,000mm x 1,000mmの正方形でガラスに中桟が入り、センターピラーが太く、雨樋が先頭部窓上にもまわされ、さらに車体中央縦横の折れ曲がり部分がなく「傾斜のついた半流線形」といった形態になったことで国鉄80系電車などとは大きく印象が異なっていた。 前照灯は当時の標準に従い、屋根中央に1灯白熱灯を設置しており、標識灯は左右腰部に引っ掛け式のものが設置された。 中間連結部には1,000mmの広幅貫通路が設置されているが、京急において貫通路が設置されたのは本形式が最初であった。本形式の導入当初、北品川 - 八ッ山橋間に存在した急カーブ区間においては、危険防止のため貫通路部分を通行禁止としていたが、1956年(昭和31年)6月に行われた線路移設工事により急カーブは解消し、通行禁止も解除された。 その他、放送装置、速度計、暖房装置が設置された。 車体外部は赤を基調に窓廻りが黄色に塗装され、当時京急の標準色となった。 主要機器
主電動機・駆動装置
いずれも端子電圧750V時定格出力110kW。駆動方式は吊り掛け式。 制御器
台車
ブレーキ
電動空気圧縮機 (CP)はAK-3を採用。電動発電機 (MG)と共にデハ500形に搭載されている。 集電装置デハ500形の運転台寄りに各1基ずつ通常の菱枠形パンタグラフを搭載。 製造時のバリエーション1951年製造車製造所の「東急」は東急横浜製作所製、「川崎」は川崎車輌製。左が浦賀方。以下各製造時で同じ。
本形式で最初に製造されたグループ。2両の電動車が背中合わせに連結されていた。京急で初めて貫通幌を採用し、車両間の行き来が可能となった。 1952年製造車
前年製造車(デハ500形)と組み合わせて使用するクハ550形10両が1952年4月に製造された。下1桁が同じ番号のデハ500形と組み合わせて編成が組まれた。デハは製造時の向きのままとされたため、浦賀寄りにデハ500形が付く編成と、品川寄りにデハ500形が付く編成の2種類が出現した。運転台寄り屋根上にパンタ台が設けられ、屋根も絶縁処理がなされるなど、電動車化を想定した設計とされている。なお、デハ500形に対して以下の変更点がある。 2扉時代の改造工事2扉時代に以下の改造工事が行われている。 4両編成化前の諸改造
4両編成化改造1964年(昭和39年)に4両編成化工事が行われた。主な内容は、以下の通り。
4両編成化以降の編成は以下の通り。左が浦賀方。
4両編成化以降の改造
4扉化改造1968年(昭和43年)12月から1969年(昭和44年)9月にかけて、台枠を残して車体を解体し、4扉ロングシートの車体を旧台枠上に新造する改造工事が久里浜工場で行われた。改造内容は以下の通り。
4扉化改造後の改造4扉化改造から廃車までの間に各種改造工事が行われた。
運用![]() 2扉時代はハイキング特急などの優等列車を中心に運用された。 4扉改造後は4両編成で普通運用、もしくはデハ400形2両編成を品川方に連結した6両編成で急行運用にそれぞれ充当された。 1978年(昭和53年)から3両編成化までの1年3ヶ月間、大師線の運用にも充当された。 1978年のダイヤ改正で本線普通列車のランカーブが700形(2M1T編成)を基準としたものに変更され、吊り掛け駆動各形式を特にラッシュ時に本線普通で運用することが困難になった。そのため、同ダイヤ改正以降4両編成当時は400形2連を連結して、3両編成化以後は400形または500形3両編成2編成を組み合わせて急行に運用された。 1985年(昭和60年)以降、400形460グループの廃車進行により空港線運用に充当されるようになり、翌1986年3月以降は本線系統における急行運用から撤退し、深夜に新町検車区への回送をかねた京急蒲田-神奈川新町間の普通運用が存在した以外は基本的に空港線のみで運用された。 廃車1982年以降各種延命工事が行われ、京急吊り掛け式駆動車では最後の旅客車として使用されていたが、400形全廃からほどない1986年8月28日に一般旅客営業を終えた。鉄道趣味団体によるさよなら運転が同年8月31日に行われた[1]後、同日付で全車廃車となり、形式消滅した。本形式の全廃によって京急から吊り掛け駆動の旅客用車両が全廃され、新性能化率100%が達成された。 廃車後は全車とも解体処分され、保存、他社譲渡された車両はない。 参考文献
脚注注釈
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