大島節(おおしまぶし)は、東京都・伊豆大島・大島町の民謡。
大島節は、明治初期、伊豆大島の野増(のまし)村(現大島町)で、人々が茶もみの労作唄(うた)として歌い出した『野増節』が原型といわれる。この『野増節』に、横浜市あたりで歌われていた、お茶の火入れ再製作業の労作唄『お茶場節』が取り入れられ、現在の大島節のメロディの基となったといわれる。
1930年(昭和5年)-1931年(昭和6年)頃まで、大島節は手拍子だけで歌う形であった。経年を経て、観光客向けや料亭座敷向けに三味線の手や、あんこ娘の踊りが入るお座敷唄バージョンも完成されたが、大島地元の人達は、常に手拍子だけで歌っている。
大島節は、本来冠婚葬祭の席で、島人達が車座になり、その催事に適した即興詩を詠い回してゆく伝承民謡である。従い歌詞は不定形で無限。後出の大島町岡田在住、坂上豊吉(理髪店経営者で伊豆大島の伝承芸能・文化保存者)による地元古老への聞き書き「大島節歌詞集」を始め、記録され定形詞となってきた歌詞だけで100以上あるとされる[1][2][3]。
東京都大島町野増の大宮松原には1974年(昭和49年)に建立された黒御影石の大島節歌碑がある[4]。
大島節に限らず、大島の民謡の歌い出しは、「あのこ(娘)が出したら、みな(皆)つけろ」と、歌い出すのが定番である。「あのこ(娘)」が「あんこ(娘)」の場合もある。
ア ハーイハイトー アアーア アーアア アア 私しゃ大島ァ 御神火(ごじんか)育ちヨ(ナ) ア ハーイハイトー 胸に煙はナ(ヨ) 絶えやせぬヨ(ナ) ア ハーイハイトー[5]
出典 「大島節歌詞集」昭和59年4月改訂版 大島町岡田 坂上豊吉による地元古老聞き書き書より121詞を抜粋。(上述写真参照。坂上豊吉は、伊豆大島の伝承芸能文化保存者)
※歌詞中の「御神火(ごじんか)」は畏敬を込めた三原山噴火口の呼び名、また、「主」は「ぬし」または「にし」と発音し、伊豆大島の方言で「あなた」の意(岡田地区では「我」「われ」と言う)。
大島町元村生まれの大島里喜(おおしま りき)は、大島節を始め、あんこ節他、大島民謡界きっての唄い手である。
本名:大久保里喜、1909年(明治42年)生まれ。16歳の時、島唄の神様と言われた「柳瀬シズ」(女性)に大島民謡を勧められ、本格的に唄を習い始めたという。里喜によれば、この柳瀬シズが「本当の正式な大島節を始めた人」である。1937年(昭和12年)、里喜が28歳の時、初めてNHKラジオでその歌声が日本全国に放送された。以来、大島里喜は、名実ともに大島民謡の第一人者となり、「大島節」や「あんこ節」が代表曲とされた。
1948年(昭和23年)、NHKが東京と伊豆大島と伊豆との三元放送を行なった時に、大島町の民謡として、大島里喜の「大島節」を紹介した。その際アナウンサーが「大島のお里喜さんです」と紹介したため、以降「大島里喜」が通り名となった。芸名「大島里喜」の由来である。それまでは、本名の「大久保里喜」で活動していた[7][8]。
画家からのメッセージ・・・私は画業生活のなかで、自分を見失いそうになった時には、「大島節」を歌ったり、踊ったりして、かろうじてバランスをとってきた。それは遠い外国(南米ブラジル・サンパウロ)だったり、北陸の雪の中(石川県・加賀市)であったりした。私はいつも、ふるさと伊豆大島の息吹きを、この胸に感じながら絵筆を握ってきた。
1972年の山平和彦のアルバムデビュー作『放送禁止歌』に大島節が収録されたが、歌詞が猥雑だとして同年に表題作ともども要注意歌謡曲指定制度において放送禁止となるAランク指定を受けた[13]。制度が効力を失う1988年まで指定を受け続けたが[14]、森達也は『時には娼婦のように』や『後ろから前から』などの方が扇情的だがそれらの多くは指定から外れて時代とともに緩和されてきた制度だが同曲が相変わらずだったことに疑問を呈し、2000年前後にはそれを聞いても答えられる人は制度の主体である日本民間放送連盟にはもういないと返答されているが、それぞれの楽曲を審議する人間が思考停止に陥っていたのではないかと考え、何かのはずみで残り続け担当者の引き継ぎが行われても考察をせずそのまま申し送りすることが繰り返された可能性を指摘している[15]。