天津風(あまつかぜ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[1]。
艦名は初代天津風の襲用[2]。意味は「天を吹く風」[3]。
概要
一等駆逐艦天津風(あまつかぜ)は、日本海軍が舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)2月から1940年(昭和15年)10月にかけて建造した陽炎型駆逐艦[4][5]。
日本海軍の駆逐艦としては、初代「天津風」(天津風型駆逐艦)[2][6]に続いて2代目。
本艦は、陽炎型駆逐艦の9番艦である[7][8]。天津風のみ次世代型駆逐艦島風用の試作機関を搭載していた[9]。
竣工後、第16駆逐隊に所属[10]。太平洋戦争開戦以後、同駆逐隊の陽炎型4隻(初風[11]、雪風[12]、天津風[5]、時津風[13])は南方作戦(フィリピン攻略戦、蘭印作戦、スラバヤ沖海戦)、クリスマス島攻略作戦(天津風のみ)、ミッドウェー海戦(輸送船団護衛)、第二次ソロモン海戦等、数々の海戦に参加[10]。
1942年(昭和17年)8月下旬の第二次ソロモン海戦における第16駆逐隊2隻(天津風、時津風)は[5][13]、重巡利根と共に沈没した空母龍驤を救援。10月下旬の南太平洋海戦における16駆4隻は南雲機動部隊の直衛艦として参戦[5]。
11月中旬、16駆2隻(天津風、雪風)は第三次ソロモン海戦に参加[12]。天津風は夜戦で損傷し、内地に帰投した[5]。
1943年(昭和18年)1月に修理完了[5]、その後は主に輸送船団や艦隊の護衛任務に従事した[5]。2月には損傷した駆逐艦「春雨をウェワクから曳航している[14]。
12月上旬より海上護衛総司令部の作戦指揮下に入る[15]。
1944年(昭和19年)1月初頭、第16駆逐隊2隻(天津風、雪風)は空母千歳と共に第一海上護衛隊に所属してヒ31船団を護衛中[16][17]、天津風は1月16日に米潜水艦の雷撃を受けて大破[18][19]。船体の前半部分(艦首〜艦橋)を喪失し、船体後部のみ駆逐艦朝顔に曳航されてサイゴンに到着した[5]。第16駆逐隊は3月31日附で解隊[10][20]。応急修理後の天津風はシンガポールで修理を行う[5]。
1945年(昭和20年)3月下旬、天津風は仮艦首を装備してヒ88J船団に加わり日本本土へ帰投中、4月上旬にアメリカ軍機の攻撃を受け大破[5]。アモイで座礁し、自沈した。戦後、艦名は海上自衛隊の護衛艦「あまつかぜ」に引き継がれた。
高温高圧缶の採用
天津風は後に次世代型駆逐艦島風で採用した高温高圧缶(ボイラー)をテストケースで搭載したことで知られる[21]。他の陽炎型駆逐艦の缶の発生する蒸気は圧力30 kgf/cm2 (430 lbf/in2)、温度350℃であったが、天津風のそれは圧力40 kgf/cm2 (570 lbf/in2)、温度400℃であった[22]。高温高圧の缶を採用することで機関はコンパクトになり、燃費も向上する。天津風は全速発揮時1時間1馬力あたり0.305kgの燃料を消費するが、陽炎の消費量に比べて0.040kg少なく、吹雪20 kgf/cm2 (280 lbf/in2)より0.135kg少なかった[23]。天津風の試作機関は小型の大出力機関を開発するのに必要な技術であった。ただし、天津風の機関出力は他の陽炎型と同じく5万2000馬力に設定され、巡航時の燃料消費量もさほどかわらなかった[21]。
艦歴
太平洋戦争
舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)2月14日起工[4]。8月25日、天津風(アマツカゼ)と命名された[1]。同時に姉妹艦の時津風も命名された[1]。同日附で3隻(隅田、天津風、時津風)は艦艇類別等級表に類別される[8]。
同年10月19日、天津風は進水。1940年(昭和15年)10月26日に竣工[4]。呉鎮守府籍。同年1月27日編制(初代駆逐隊司令島崎利雄大佐)[24]の第16駆逐隊は陽炎型2隻(黒潮、雪風)だったが、2月15日に初風、11月15日に時津風、12月15日に天津風がそれぞれ編入され[10]、それにともない黒潮は11月15日附で第15駆逐隊へ転出した[25]。
1941年(昭和16年)7月25日、島崎司令は軽巡洋艦川内艦長へ転任、渋谷紫郎大佐(前職第7駆逐隊司令)が第16駆逐隊新司令として着任した[26]。第16駆逐隊は渋谷司令指揮下のもと、陽炎型4隻(雪風、時津風、天津風、初風)で編成され、第二水雷戦隊に所属して開戦を迎えた[27]。第16駆逐隊はさらに第一小隊(雪風、時津風)、第二小隊(天津風、初風)で構成されていた。第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:旗艦神通)は第8駆逐隊(朝潮、荒潮、大潮、満潮)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮、夏潮)、第16駆逐隊、第18駆逐隊(陽炎、不知火、《朝潮型駆逐艦:霞、霰》)から編制されており、15駆・16駆・18駆が陽炎型を主力としていた[28]。だが、第18駆逐隊は機動部隊警戒隊に属し真珠湾攻撃に参加。16駆以下の二水戦各艦とは別行動であった。
太平洋戦争における天津風の最初の任務は第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)空母「龍驤」航空隊の支援であった[29][30]。第二水雷戦隊旗艦神通、初風と共に飛行機帰投線を構成し、12月8日のダバオ空襲を終えて帰投する龍驤航空隊を誘導している[31]。11-12日、第2小隊(天津風、初風)は第五戦隊(重巡洋艦妙高、那智、羽黒)と合流してそれらの直衛艦となり、レガスピー攻略作戦を支援する[32]。16日、パラオに帰投。
陸軍輸送船団を護衛してパラオを再出撃し、12月20日のダバオ攻略作戦において姉妹艦の親潮と共に陸軍輸送船団の護衛を行った[33]。上陸作戦が開始されると天津風は湾内に突入、内火艇を派遣してダバオ市南岸の桟橋一帯掌握を試みる[34][35]。陸軍に先んじて海軍側で桟橋を確保しようという企図で、中国大陸ではよくある事例だったという[30]。だが天津風内火艇は連合軍兵の反撃により危機に陥り、天津風が支援砲戦を開始したところ、ダバオ市内で爆発が発生する[36]。流れ弾がガソリンタンクを破壊したと見られる[37]。この上陸作戦で天津風は小型艇1隻を撃沈、桟橋付近の数十隻を拿捕という戦果を上げ、一名の戦死者を出した[38]。のちに陸軍側から抗議されたが、戦時中のため有耶無耶となった[30]。ダバオ占領後は、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦に参加している。また各地区において、開戦と同時に拘束されていた在フィリピン邦人の救出も行った[39][30]。
1942年(昭和17年)2月26日、原艦長の回想によれば天津風はスラバヤ方面でオランダ病院船オプテンノールを臨検し拿捕する[40][41]。ただしオランダ側の記録では、26日のオプテンノールはスラバヤ港に停泊中であった[42]。
2月27日、天津風以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加して砲戦雷撃戦を行うが、第五戦隊(那智、羽黒)、第二水雷戦隊(神通、雪風、時津風、天津風、初風、江風、山風、潮、漣)、第四水雷戦隊(那珂、村雨、五月雨、夕立、春雨、朝雲、峯雲)各艦が発射した酸素魚雷はほとんど自爆してしまった。戦史叢書では『魚雷爆発尖が鋭敏だった事による早爆説』を採っているが、天津風水雷長は疾走中の魚雷同士が衝突して爆発した可能性を指摘している[43]。戦闘後、天津風はオプテンノールをバンジャルマシン基地へ連行した(天津風水雷長の回想では3月9日拿捕)[44][45]。
これは天津風の独自判断ではなく、第四水雷戦隊・第2駆逐隊(村雨、夕立)が臨検していたオプテンノール護送を引き継いだだけである[46][47]。後日、オプテンノールは日本海軍に編入され特設病院船天応丸(最終的に第二氷川丸)となった[48][45]。村雨(天津風)によるオプテンノールの臨検・拿捕・抑留そのものは『病院船は戦闘の妨害をしてはならない/重大な事情があり必要なときは病院船を抑留することができる』ため、国際法には違反していないとみられる[49]。
その後天津風は対潜哨戒任務に従事し、3月3日、他艦と共同でアメリカ潜水艦パーチを砲撃により撃沈した[50]。また、当時艦長であった原為一中佐は自著の中で、3月8日に米潜水艦シャークを撃沈したと記述している(アメリカ軍記録と異なる)[51]。3月下旬、クリスマス島攻略作戦に参加[52]。4月1日、物資揚陸中に軽巡那珂がアメリカ潜水艦シーウルフの雷撃で大破。天津風は軽巡洋艦名取に曳航される那珂を護衛して帰投した[53](日本軍のクリスマス島占領)。
ミッドウェー作戦では攻略部隊を乗せた輸送船の護衛に当たり、5月28日にサイパンを出撃する[54]。6月4日、アメリカ軍哨戒機の雷撃により輸送船1隻が小破したが、輸送船団が本格的にアメリカ軍と交戦することはなかった[55]。
6月13日、二水戦(神通、初風、雪風、天津風、時津風)はトラックを発ち、21日横須賀へ帰投している[56]。8月1日、第16駆逐隊司令は渋谷大佐から荘司喜一郎大佐に交代した[57]。
ガダルカナル島の戦い
1942年8月24日アメリカ空軍のB-17より撮影。左下・龍驤右舷より離脱し爆撃回避中の天津風、中央上・被弾停止中と思われる龍驤、右上・停止中の時津風(この日に時津風は沈んでいないので龍驤の救助活動中と思われる。
8月7日、アメリカ軍はフロリダ諸島とガダルカナル島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまる。8月11日、天津風は日本本土を出港してソロモン方面へ進出した[58]。第二次ソロモン海戦では、空母龍驤、重巡洋艦利根(第八戦隊)、16駆2隻(天津風、時津風)により機動部隊支隊(陽動部隊)を編制、8月24日に第三艦隊本隊より分離してガダルカナル島へ向かう[59]。同日、龍驤は米空母サラトガ艦載機の攻撃により沈没した。天津風は支隊指揮官(第八戦隊司令官原忠一少将)より龍驤曳航を下令されていたが浸水により実施できなかった[60]。支隊各艦は龍驤乗組員と不時着機搭乗員の救助を行った[61]。
10月12日、「天津風」と「雪風」はヌデニ島グラシオサ湾を偵察した[62]。
10月24日-26日、南太平洋海戦に参加。第三艦隊司令長官南雲忠一中将指揮下の機動部隊本隊(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴、瑞鳳》、重巡《熊野》、第4駆逐隊《嵐、舞風》、第16駆逐隊《雪風、初風、時津風、天津風》、第17駆逐隊《浜風》、第61駆逐隊《照月》)を編成。天津風は空母翔鶴の護衛として活動し、不時着した機体から搭乗員13名を救助した[63]。
11月12日、天津風は第十一戦隊司令官阿部弘毅少将の指揮下、挺身攻撃隊(第十一戦隊《比叡、霧島》、軽巡洋艦《長良》、第6駆逐隊《暁、雷、電》、第16駆逐隊《雪風、天津風》、第61駆逐隊《照月》、第四水雷戦隊〔旗艦《朝雲》、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、夕暮》〕)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地砲撃のため出動する。後方警戒に第27駆逐隊を残してルンガ泊地への突入を企図したが、アメリカ軍巡洋艦部隊に迎撃される。大混戦となった第三次ソロモン海戦第一夜戦では、雷撃により少なくとも駆逐艦バートンを撃沈した[64][65][66]。続いて探照灯を照射して米艦隊を砲撃したが[注 1]、逆に目標とされて被弾[67]。第二缶室に被弾・浸水して左舷に14度傾斜、艦上部構造物にも多数の命中弾があり、戦死者45名、負傷者31名を出した[68]。この際、舵故障を起こすも応急人力操舵で鉄底海峡からの離脱に成功している[69]。司令部からは沈没したと思われており、艦隊と合流すると祝福の通信があったという[70]。
一連の戦闘で天津風は砲弾151発(残745発)、魚雷16本(残0本)を発射し、巡洋艦1隻・輸送船1隻轟沈、巡洋艦1隻・魚雷艇1隻大破確実を報告した[71]。トラックに帰投後は工作艦明石に接舷して応急修理を行なったのち、単艦で日本本土へ帰投[72]。12月20日、呉軍港に帰還し翌年1月まで呉工廠で修理が行われた。
1月26日、「天津風」の修理完成[5]。2月4-5日、「天津風」と重巡洋艦「鈴谷」は内地を出撃[10][73]。2月10日、トラック諸島へ進出した[74]。以降はトラックを中心に各地への船団護衛に従事した。
2月15日、「天津風」は駆逐艦「浦風」とともにトラックを出港[14]。2隻はまず空母「瑞鳳」飛行機隊基地員180名と基地物件をウェワクへ輸送した[14][75]。これは陸軍部隊のウェワクへの輸送(丙三号輸送)に伴うものであった[76]。2月17日にウェワクに着いて輸送を終えると、今度は被雷損傷していた駆逐艦「春雨」を「天津風」が曳航し、「浦風」、救難艦「雄島」とともに同日トラックへ向けて出発[77]。途中、悪天候で曵索が切断され、曳航は「浦風」にかわった[14]。2月23日、トラックに到着[14]。
3月31日、「天津風」は駆逐艦「谷風」と共に南東方面部隊に編入された[78]。「天津風」はハンサ、ウエワク、パラオへの輸送任務に従事した[5]。
4月以降「天津風」は以下のような輸送船団護衛に従事した。
- 第二次ハンサ輸送 - 独立工兵3個連隊と第二十師団の一部のハンサ湾[79]への輸送で、駆逐艦「谷風」、「第二十六号駆潜艇」、「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船6隻[80]を護衛[81]。船団は4月6日にパラオから出発し、4月12日にハンサ湾に到着[82]。同日、爆撃を受けて輸送船「しどにい丸」が被弾し擱坐した[83]。翌日は悪天候のため揚陸作業は打ち切られ、「天津風」は「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船2隻[84]を護衛してパラオへ向かった[82]。他はウェワクへ向かい、残りの物件を揚陸した[82]。
- 第三次ウェワク輸送 - 第四十一師団歩兵第二百三十七連隊などのウェワクへの輸送で、駆逐艦「浦風」、「第二十六号駆潜艇」、「第三十四号駆潜艇」とともに輸送船5隻[85]を護衛[82]。4月26日にパラオから出発し、5月1日にウェワク到着[82]。同日揚陸を完了しパラオへ向かった[82]。
- 第四次ウェワク輸送 - 野戦高射砲第六十二大隊などのウェワクへの輸送で、「浦風」、「第三十四号駆潜艇」とともに「新玉丸」ほか輸送船4隻を護衛[86]。5月8日にパラオから出発し、5月13日にウェワクに到着して揚陸し、5月17日にパラオに帰投[86]。
- 第三次ハンサ輸送 - 第二十師団歩兵第七十八連隊第一大隊、野戦高射砲第六十三大隊などのハンサ湾への輸送で、「浦風」とともに輸送船3隻を護衛[87]。5月23日にパラオから出発し、5月28日にハンサ湾に到着[86]。翌日揚陸完了し、6月3日にパラオに帰投[86]。
- 第四次ハンサ輸送 - 歩兵第七十八連隊主力などのハンサ湾への輸送で、「浦風」とともに輸送船5隻[88]を護衛[89]。6月21日にパラオから出発し、6月27日にハンサ湾に到着[89]。同日中に揚陸完了し、7月2日にパラオに帰投[89]。
- 第六次ウェワク輸送 - 「浦風」、「白鷹」とともに輸送船3隻[90]を護衛して7月6日にウェワクに到着[89]。帰路、輸送船「東豊丸」が故障のため航行不能となり「天津風」が曳航した[89]。
この間の5月1日、第16駆逐隊司令は荘司大佐(5月20日附で軽巡川内艦長)から鳥居威美大佐に交代した[91]。
7月下旬、「天津風」と「浦風」は重巡洋艦「青葉」、給糧艦「伊良湖」を護衛して内地へ帰投する[92]。8月1日、4隻は呉に到着した[93]。整備、補給、乗組員の休養を行う。
8月17日、主力部隊(戦艦3隻《大和、長門、扶桑》、空母《大鷹》[94]、巡洋艦3隻《愛宕、高雄、能代》、駆逐艦部隊《涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風》)として呉を出撃し、23日トラックへ進出[95][96]。
9月、第16駆逐隊(天津風、初風)は、第三水雷戦隊、第10駆逐隊、第17駆逐隊(磯風、松風《臨時編入》)と共にコロンバンガラ島守備隊救出作戦(「セ」号作戦)を支援する[97]。
11月1日、軽巡阿賀野(第十戦隊旗艦)、麾下駆逐艦(初風、若月、涼月、長波)等は第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)の基地物件をラバウルへ輸送した[98][99]。11月2日、駆逐艦3隻(天津風、島風、漣)はタンカー2隻(日章丸、日栄丸)を護衛してトラックを出発、ラバウルへ向かった[100]。だが日章丸は空襲により損傷、島風は日栄丸を護衛してラバウルへ向かった[101]。2隻(天津風、日章丸)はトラックへ戻った[102]。
この時、ラバウル方面ではブーゲンビル島沖海戦が生起、軽巡川内が沈没し、十戦隊からは初風が沈没した[10][11]。初風は翌年1月15日附で除籍され、第16駆逐隊は2隻(天津風、雪風)に減少した[10][103]。
12月3日、軽空母千歳、第16駆逐隊(天津風、雪風)は第三艦隊より海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)へ臨時編入され、附属部隊となった[15][104]。12月6日附で第16駆逐隊司令は鳥居大佐から古川文次大佐に交代[105]。
12月7日、3隻(千歳、天津風、雪風)は船団2隻(伊良湖、靖国丸)を護衛してトラック泊地を出発[106]。14日、横須賀へ帰投した[107][108]。12月16日、3隻(千歳、天津風、雪風)は呉鎮守府司令長官の指揮下に入る[109]。翌日、呉に到着した[110]。
船体断裂
1944年(昭和19年)1月4日[18]、3隻(千歳、天津風、雪風)は呉鎮守府部隊より除かれ[111]、第一海上護衛隊の指揮下に入り高速石油船団(ヒ船団)の護衛に投入される[112][16]。
1月11日門司を出港、3隻(空母《千歳》、駆逐艦《天津風、雪風》)は『ヒ31船団』[17][113](運航指揮官細谷資彦大佐。御宝山丸、厳島丸、北陸丸、建川丸)を護衛しシンガポールに向かう[18][114]。天津風には第16駆逐隊司令古川文次大佐が乗艦していた。
1月16日夕刻、本艦は南シナ海で浮上していたアメリカ潜水艦レッドフィンを発見した[115]。天津風は単艦で追撃・砲撃を行うも、船団護衛に戻ろうと左に転舵したところレッドフィンの雷撃を受けた[116][117]。
被雷地点北緯14度40分 東経113度50分 / 北緯14.667度 東経113.833度 / 14.667; 113.833[19][118]。
魚雷1本が左舷1番煙突直下に命中して第一罐室は全滅、荒れた天候のため前後に船体切断、艦橋を含む前部船体を喪失し、艦後部は応急処置に成功して沈没を免れたが後部缶室に浸水したため、残り1基のボイラーも停止して航行不能となる[117]。古川大佐を含む船体前部乗組員34名は船体後部へ泳いで合流しようとしたが水雷長・航海長・下士官1名以外行方不明となり、一方田中正雄艦長は切断前に後部へ移動しており無事だった[119][117]。
戦死者は86名(第16駆逐隊司令、砲術長、便乗者含む)[120]。
天津風は直ちに救援緊急電を発信したが、艦橋を失って海図がないため被雷位置が100浬ずれており、友軍捜索機に発見されなかった[121]。一週間ほど漂流[18][120]。やむを得ず天津風より電波を発射して高雄市-マニラ-サイゴン無線所による方位測定をおこない[122]、1月23日になって第705海軍航空隊所属の一式陸上攻撃機に『後部』を発見される[123]。航空隊の誘導により駆逐艦朝顔、第十九号駆潜艇が到着し[124][125]、朝顔の曳航によりサンジャックを経由して1月30日サイゴンに入港した[126]。
2月5日、3隻(千歳、天津風、雪風)は第一海上護衛隊より除かれ[127]、7日には海上護衛総司令部の作戦指揮下を離れた[128]。
3月31日をもって第16駆逐隊は解隊[10]、雪風は陽炎型(不知火型)4隻(浦風、磯風、浜風、谷風)編制の第17駆逐隊に編入された[129][20]。
天津風は11月8日までサイゴンで応急修理に従事した[126]。天津風の修理中に生起したマリアナ沖海戦・レイテ沖海戦・多号作戦で日本海軍は事実上壊滅し、不知火型の残存艦も4隻(雪風、天津風、磯風、浜風)を残すのみとなった。
11月15日よりシンガポールの第101工作部で、1945年(昭和20年)1月まで修理を行う[22]。修理内容は切断箇所から先に仮艦首を建造・装着して、その上に仮設の操舵艦橋と前部マストが設置された[130]。これにより後部主砲2基の戦闘能力を取戻し、さらに13mm単装機銃3門と25mm単装機銃2門を増設、主ボイラー1基の復旧により20ノット強の速力が出せるようになった[131]。その一方で本来の艦橋を喪失した事で、射撃指揮装置となる方位盤が無い為に砲側で照準・射撃を行う他無く、実際の砲撃力は4分の1以下と見るべきであった。また、水測兵器も使えず目視に依る見張に頼るしかなくなり、爆雷も全くの目算で投下するより他なかった[132]。応急修理後の船型は第一罐室以前を失った為に第一煙突後部にあった魚雷発射管のところに艦橋を仮設、そのすぐ前方が仮艦首となり全長は72.4mとなった[133]。この応急艦首は15ノットで航行していても30ノットのような凄い艦首波が発生する錯覚効果を産み、これに依り的針・的速を見誤らせる効果が起り、後に潜水艦の雷撃が回避運動を行う必要が無い程前方を通過する事が何度も起った[134]。日本海軍は高性能の機関を搭載した天津風の本国修理を決定し、既に艦首と罐が舞鶴海軍工廠で製造中との連絡が入る[22]。第十方面艦隊司令長官福留繁中将は天津風が日本に辿りつけるか懸念してシンガポールに残ることを薦めたが、新たに就任した森田艦長は内地での修理を決意した[131]。
船団護衛
1945年(昭和20年)3月17日、第一南遣艦隊の命令により南号作戦の一環として、『ヒ88J船団』(輸送船7隻、護衛艦7隻)に加わっての本国帰投が決定する[135][注 2]。
3月19日[注 3]シンガポールを出港、『ヒ88J船団』を護衛し内地に向かった[136]。途中、B-24リベーレーター爆撃機やB-25ミッチェル爆撃機の度重なる空襲、米潜水艦の襲撃によりヒ88J船団は全滅した[137]。天津風は何度もアメリカ軍に襲撃され、とくに3月30日の海南島停泊中にB-25ミッチェル12機から反跳爆撃を受けた際には1発が命中(不発)、機銃掃射により1名戦死、1名重傷という損害を出した[138]。4月2日、香港に入港、新たに編成された『ホモ03船団』に加わる[139][注 4]。3日、B-24リベレーター50機の爆撃により択捉型海防艦満珠が大破着底、ホモ03船団は出港前から損害をこうむった[140]。4月4日、天津風は満珠から25mm単装機銃2基、13mm単装機銃1基を貰い受けて応急装備すると、夕刻になってから香港を出港した[141]。4月5日、輸送船甲子丸(乗員乗客約540名)が爆撃を受けて沈没、天津風と第二十号駆潜艇は約260名を救助し、第二十号駆潜艇は救助者を乗せて香港に避退した[142]。第二東海丸は既に沈没し、天津風は無線機の故障で僚艦と連絡もとれず単艦で日本へ向かった[143]。天津風砲術長によれば「分離行動は各個撃破され不利」と第十一海防隊司令(海防艦1号、134号)に発信したが、2隻は天津風を置いて先行した[144]。だがアメリカ軍第345爆撃大隊(B-25ミッチェル62機)はB-24の蝕接により天津風を仕留めようと態勢を整えていた。
自沈
4月6日午前11時30分、アモイ沖にて第345爆撃大隊第501中隊が天津風より20浬先行していた「第一号海防艦」と「第百三十四号海防艦」を相次いで撃沈、続いて第500中隊が周囲を索敵し天津風を発見した[145]。第500中隊第1小隊B-25ミッチェル3機は反跳爆撃で天津風に爆弾1発命中を主張するが実際には命中せず、逆に3番機が撃墜・墜落した[146]。続く第498中隊(1機喪失)の反跳爆撃により500ポンド爆弾3発が船体後部に命中、主砲は全て破壊され、無線機・機関・舵は故障、火災が発生して左舷に傾斜した[147]。アメリカ軍の記録によると、4月6日の戦闘で天津風は合計18機のB-25と交戦、計3機を撃墜し2機に損傷を与えた[148]。天津風は一時は弾薬庫付近の火災により危機に陥るが、浸水により鎮火に成功、人力操舵により速力6ノット発揮可能となり、アモイまで自力航行した[149]。
6日午後7時30分、天津風はアモイ湾内で機関停止したが機雷源通過後に推進機関損傷により機関再始動に失敗(潤滑油に海水が混ざったため)[150]、また錨鎖もなく潮流に流されて午後8時20分浅瀬に座礁した[151]。翌4月7日、200トン警備艇により曳航作業を試みるが失敗し、その後に波浪に流され離礁するもアモイ島南岸に再度座礁した[152]。天津風の森田艦長は根拠地隊司令部と打ち合わせのため負傷乗組員と共に陸上へ向かい、砲術長が指揮をとることになる[153]。すると略奪目的の匪賊(重慶軍とも)に襲撃され、撃退するも1名が戦死した[154]。もう一度曳航を試みたが失敗[155]。ここに至り天津風の機能回復は絶望的となり、廈門特別根拠地隊の協力を得て物資・武装を揚陸、乗組員は退去した[156]。4月8日、天津風の乗組員の退去完了[155]。4月10日、軍艦旗降下の後、爆雷の自爆により爆破処分された[157]。生存者は161名、戦死者39名(便乗者3名含む)[157]。
駆逐艦天津風は8月10日附で帝国驅逐艦籍[158]、不知火型駆逐艦[159]のそれぞれから除籍された。
歴代艦長
- 艤装員長
- 原為一 中佐:1940年5月1日[160] - 1940年9月15日[161]
- 駆逐艦長
- 原為一 中佐:1940年9月15日[161] - 1943年1月10日[162]
- 田中正雄 中佐/大佐:1943年1月10日[162] - 1944年1月10日[163]
- 菅明次 少佐:1944年1月10日[163] - 1944年1月14日 漣艦上で戦死のため未着任。同日付任海軍中佐[164]。以後1944年3月13日まで艦長の発令無し。
- (兼)佐佐木高信 大佐:1944年3月13日[165] - 1944年8月29日[166] (本職:第十一特別根拠地隊参謀)
- (兼)長谷部喜蔵 大佐:1944年8月29日[166] - 1945年2月10日[167] (本職:早鞆特務艦長)
- 森田友幸 大尉:1945年2月10日[168] - 1945年4月17日[169]
公試成績
時期
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排水量
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出力
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速力
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実施日
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実施場所
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備考
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新造時 |
2,553t |
52,150shp |
34.5kt |
1940年(昭和15年)10月17日 |
宮津湾外経ヶ岬標柱間 |
10/10全力
|
注釈
- ^ この際、『帝国海軍の最後』62-63頁によれば大型艦に対して魚雷命中を確認し、「戦後の調査で米重巡『サンフランシスコ』と判明」としている。『太平洋海戦 激闘編』336頁ではこの艦を米重巡『ポートランド』、『戦艦ワシントン』144頁では米軽巡『ジュノー』としている。
- ^ 『ヒ88J船団』編成。さわらく丸、鳳南丸、阿蘇川丸、海興丸、荒尾山丸、天長丸、北上丸、第十八号海防艦、第八十四号海防艦、第百三十四号海防艦、第一号海防艦、第百三十号海防艦、第九号駆潜艇、満珠
- ^ 『写真 日本の軍艦 第11巻 駆逐艦II』によると3月9日。
- ^ 『ホモ03船団』編成。天津風、海防艦満珠、第百三十四号海防艦、第一号海防艦、第十九号駆潜艇、第二十号駆潜艇、輸送船甲子丸、第二東海丸
脚注
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『10.オランダ政府ノ帝国病院船不承認ニ関スル件』。Ref.B02032923900。
- Ref.C13072000700 『巻1 追録/第2類 編制』
- 『昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。
- 『昭和14年達完8月(防衛省防衛研究所)/達昭和14年8月』。Ref.C12070105800。
- 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071997700。
- 『巻1 追録/第2類 編制(昭和15年6月25日現在 10版 内令提要追録第7号原稿)』。Ref.C13071988700。
- 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3(防衛省防衛研究所) 巻3追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13072003500。
- 『第5戦隊司令部戦時日誌戦闘詳報.南方部隊菲島部隊南菲支援隊戦闘詳報』。Ref.C08030723800。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030088000。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030088100。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030088200。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030088300。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(5)』。Ref.C08030088400。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(6)』。Ref.C08030088500。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(7)』。Ref.C08030088600。
- 『昭和16年12月6日〜昭和17年1月3日 第2水雷戦隊戦闘詳報(8)』。Ref.C08030088700。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030724700。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030724800。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030724900。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030725000。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030725100。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030725200。
- 『昭和16年12月 第2水雷戦隊戦時日誌(7)』。Ref.C08030725300。
- 『昭和17年3月11日〜昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030043000。
- 『昭和17年3月11日〜昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030043100。
- 『昭和17年2月8日〜昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030110700。
- 『昭和17年3月10日〜昭和17年7月31日 第16戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030053000。
- 『昭和16年12月〜昭和17年8月 龍驤飛行機隊戦闘行動調書(3)』。Ref.C08051585900。
- 『昭和17年1月12日〜昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌 第8戦隊(2)』。Ref.C08030048300。
- 『昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030051800。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年5月31日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030367500。
- 『昭和17年4月1日〜昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030047700。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030116300。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030116400。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月16日 南東方面艦隊戦時日誌戦闘詳報 第2段作戦(2)』。Ref.C08030026200。
- 『昭和18年6月1日〜昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030368300。
- 『昭和18年6月1日〜昭和18年11月30日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030368400。
- 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101000。
- 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030101100。
- 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030101400。
- 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030101500。
- 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050000。
- 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050100。
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- 「独断反転」<駆逐艦「榧」艦長・岩淵悟吾郎少佐の証言>(太平洋戦争時、天津風水雷長、阿武隈水雷長、最上水雷長、望月艦長、夕凪艦長、榧艦長等)
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- (40-61頁)当時「天津風」水雷長・海軍中尉真庭英治『風と波の音と駆逐艦「天津風」被雷遭難す 昭和十九年一月十六日、左舷中部に被雷、艦体切断、漂流の記録』
- (76-97頁)元海軍造船官・海軍技術大佐牧野茂『日本駆逐艦造船論 造船技術界の至宝が自ら手がけた駆逐艦の長所短所を明かす建造秘録』
- (98-108頁)「丸」編集部『陽炎型駆逐艦の高性能を支えた七つの要点 無条約下にうまれた強力艦艇の対空、魚雷、電波兵装や機関の秘密』
- (109-123頁)戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録』
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- (238-254頁)当時「天津風」砲術長・海軍大尉小川治夫『歴戦艦「天津風」アモイ沖に憤死す 制海権空権なき対空対潜戦闘を耐えぬいた稀有の記録』
- (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
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- 当時「天津風」艦長・海軍中佐原為一『十六駆逐隊の第二次ソロモン海戦 敵機動部隊牽制の別働隊として突入した天津風と時津風と龍驤の死闘』
- 原為一『帝国海軍の最後』河出書房、1967年10月。
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- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第40巻 南太平洋陸軍作戦<3>ムンダ・サラモア』朝雲新聞社
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- 堀元美『造船士官の回想(下)』朝日ソノラマ文庫、1994年8月。ISBN -4-257-17285-1。
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- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 17 駆逐艦 春雨型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6。
- 「丸」編集部『空母機動部隊 私は非情の海空戦をこう戦った!』光人社、2010年7月。
- 当時「龍驤」戦闘機分隊・元海軍整曹長玉手修司『軽空母「龍驤」の最期』
- 三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2。
- イヴァン・ミュージカント著、中村定訳 『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』 光人社、1988年。
- 藤田千代吉ほか『証言 昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション6 ミッドウェーの海に鋼鉄の浮城が燃えている』光人社、1990年7月。ISBN 4-7698-0504-7。
- 森田友幸『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり』光人社、2000年。ISBN 4-7698-0953-0。
- 『25歳の艦長海戦記 駆逐艦「天津風」かく戦えり(NF文庫)』光人社、2004年。ISBN 978-4-7698-2438-1。
関連項目
外部リンク