小田氏小田氏(おだし)
以下に1の氏族について記載する。 発生小田氏は鎌倉時代、源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた八田知家(八田太郎、宇都宮宗綱の子)を祖とする。知家の子の八田知重(尊卑分脈では「八田五郎」、宍戸系図では八田太郎)が小田を名のる。 常陸小田氏通字として「知」または「朝」(いずれも読みは「とも」)、室町時代以降は「治」(はる)を代々用いている。南北朝時代には南朝方の一翼として活動し、室町時代には鎌倉府により関東八屋形に列せられ、関東の支配体制の一翼を担った名家であった。しかしその後は佐竹氏ら周辺の諸氏に圧迫され、戦国時代に入ると、小田氏の力は大きく衰退し、常陸の南部をかろうじて支配する小大名にまで成り下がっていた。16世紀前半、名君・小田政治が現われて結城氏や古河公方などと争い、所領を一時拡大し、最盛期を迎えたが、政治の子・小田氏治は北から佐竹氏、南から後北条氏という二大勢力に領土を侵食され、上杉謙信や佐竹義重などに時に臣従し、時に翻弄されながら、領土の侵食・奪還を繰り返していた。地元民には慕われ、幾度領土を追われても、その都度地元民が支援してくれるために、すぐに旧領復帰を成せていた。 永禄12年(1569年)、氏治は佐竹氏の侵攻を受けて居城・小田城を失い、天正11年(1583年)には佐竹氏に完全に臣従した。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せずに所領奪還の戦を行っていたことを理由に所領は没収され、結城氏と佐竹氏に分割されてしまう。氏治は秀吉に臣従を願うが叶えられず、その後は娘が側室となっていた結城秀康の客分となり、嫡男(次男)の守治とともに越前へ下向した。その後は、嫡男の経治が武蔵に移り吉治、頼治、義久、朝宗、朝益、朝泰と小田流の剣術家として続いた。 一方、人質として北条氏に仕えていた氏治の庶長子友治は小田原落城後、秀吉に仕え、先祖の「八田」姓に改称し、朝鮮出兵などで活躍するが、豊臣秀次に連座して改易。その後はやはり結城秀康、次いで松平定勝に仕えた。その子義治は豊臣秀頼に仕え、大坂の陣にも参戦した後、福島正則に客将として招かれたが、正則所領の広島にて死去した。 常陸小田氏一族
系譜
脚注(常陸小田氏関連)注釈出典常陸国の諸氏肥前小田氏小田直光が九州肥前国に移り、肥前の小田氏の祖となり、この一族は肥前国蓮池城(はすのいけじょう)主を拠点とした。少弐氏の家臣となるが、主家の衰退と運命をともにし、小田政光は、龍造寺隆信に降伏したものの、のちに調略により死地に追いやられ、子達も隆信に暗殺され滅亡した。多久龍造寺家の龍造寺長信の妻が政光の息女であったため、肥前小田氏は多久家の縁者により継承された。 系譜
※一部の当主は主君・少弐氏当主から偏諱の授与を受けている。直光 - 少弐直資(冬資・頼澄の兄)、(泰光 - 少弐頼泰(頼尚の甥)?)、貞光 - 少弐満貞、(親光 - 少弐資親(教頼の子)?)、資光 - 少弐政資、元光 - 少弐資元 と思われる。 伊賀守流小田氏鎌倉幕府の評定衆、六波羅評定衆・引付頭人、のち鎌倉府の奉公衆となり、享徳の乱の後、騎西城に拠った一族。本領は陸奥国高野郡 で在名は「高野」だったが小田姓を名乗っていた。 小田顕家、成田長泰の弟で小田顕家の跡を継いだ小田朝興などがいる。 参考文献
関連項目 |