新経済システム (東ドイツ)新経済システム (ドイツ語: Neues Ökonomisches System)とは、ドイツ民主共和国 (東ドイツ)において1963年から導入された経済政策である. 「新経済システム」は略称であり、ドイツ社会主義統一党 (SED) による公式の呼称は「計画と指導のための新経済システム」(ドイツ語: Neue Ökonomische System der Planung und Leitung )である。 計画経済をより効率的なモデルに改善すべく、ヴァルター・ウルブリヒトの主導によって導入され、それまでの「五カ年計画」に基づく経済政策を置き換えた。
概要ヴァルター・ウルブリヒトの主導の下、ギュンター・ミッタークらによって政策が策定され、1963年の前半期より導入された。 本政策は、それまでのスターリン体制に基づく厳格な計画経済モデルを見直し、限定的ながら自由経済モデルを一部に導入することで、西ドイツの 「経済の奇跡」に対抗するとともに、食糧不足や西側への人口流出(頭脳流出)を始めとする国内の経済・政治問題を解決することが目標とされた。[1] 背景本政策の策定は、ウルブリヒト、ミッターク、エーリッヒ・アペルら数人からなるグループによって1962年より行われた。本政策が導入された背景としては、以下のものが挙げられる。
実行本政策の基本的原理としては、以下のものが挙げられる。
実態と問題点ソ連から供給される、石油や鋼鉄などの原材料の供給量が、ソ連本国の事情に左右され不安定であったことは、本政策の実行において少なからず悪影響を与えた。例えば1963年には、ソ連本国において品不足が発生したこと、およびキューバのカストロ政権への支援が重視されたことから、東ドイツに供給された鋼鉄、綿、穀物、肉類の供給量は当初計画の65-75%の水準にとどまった。 また、本政策のプロセスである「経済の自由化」が東ドイツのイデオロギーと相反しており、過度に自由化を推し進めることが体制の不安定化に直結するリスクを孕んでいたことから、SED政権は各企業や工場の権限拡大に対してきわめて慎重になり、経済の自由化の範囲は限定的なものにとどまった。[3] 終焉自由経済・自由競争を限定的に導入することを目標とした本政策は、「計画経済に基づいた社会主義の原則に反するもの」であるとして、エーリッヒ・ホーネッカーらSED党内の保守派党員によって1965年ごろより批判されるようになった。加えて、本政策のブレーンであったエーリッヒ・アペルが急死(過労による自殺)したことなどから、1968年ごろから自由化の範囲は徐々に狭められた。 1970年代初頭にヴァルター・ウルブリヒトが失脚し、ホーネッカーが実権を握ると、この政策は完全に停止された。 関連項目
脚注 |