村野山人村野 山人(むらの さんじん、1848年8月6日[1](嘉永元年7月8日[2][3][4])- 1921年(大正10年)1月13日[1][2][4][5][6][注釈 1])は、幕末の薩摩藩士、明治から大正期の鉄道実業家・政治家。衆議院議員、兵庫県神戸区長。幼名・喜平次、喜平太[7]。のちに山人と改名した[7]。 経歴薩摩国鹿児島郡鹿児島城下山下町城山岩崎谷(現鹿児島県[5]鹿児島市[6]城山町岩崎谷[1][2])で、薩摩藩士・村野伝之丞、肝付文子の三男として生まれた[1][2][7][8]。父は島津斉彬の奥小姓役を務めたが、高崎崩れに連座し徳之島遠島となった[7]。1855年(安政2年)父は赦免されたが帰藩の舟中で死去し[7]、家財没収となり幼少時には悲惨な生活を送った[7]。のち父の嫌疑が晴れ[2]、島津忠義の近習小姓、近習番役を務めた[1][2][8]。1861年(文久元年8月)亡兄の跡を継ぎ家督を相続した[3]。 明治維新後、鹿児島の学制改革に係わり[1]、鹿児島第三学校で二等教授役を務めた[1]。1872年(明治5年)山田為暄らと上京して邏卒(警察官)となった[1][2][8]。1874年(明治7年)台湾出兵に志願兵として従軍[1][2][4][8]。1875年(明治8年)東京に戻った[2]。1876年(明治9年)飾磨県五等警部に任官[2][8]。同年8月、飾磨県が兵庫県に編入され兵庫県庁に移り、神戸区長兼八部郡長、兵庫県書記官を務め[1][4][5][6][8]、1886年(明治19年)に退官した[2][8]。 兵庫県庁時代に神戸-姫路間の鉄道敷設を計画していたが、その実現に取り組む[1][8]。山陽鉄道が設立されると副社長に就任[1][2][4][5][6][8]。1891年(明治24年)8月、中上川彦次郎社長が辞任し、1892年(明治25年)5月に松本重太郎が社長に就任するまで村野が経営の指揮を執った[1]。1893年(明治26年)山陽鉄道を退職し[1]、その後、1894年(明治27年)豊州鉄道総支配人、1896年(明治29年)阪鶴鉄道発起人となった[1]。その他、門司鉄道、九州鉄道、南海鉄道、豊川鉄道、京阪電気鉄道、神戸電気鉄道などの経営に参画している[1][2][4][5][6][8]。また、神戸商法会議所(現神戸商工会議所)の創立委員を務め[8]、特別議員となり[3]、さらに同会頭に1887年(明治20年)から1892年(明治25年)まで在任した[5][6][8]。 1892年2月、第2回衆議院議員総選挙(兵庫県第1区)で当選し[1][9]、次の第3回総選挙でも再選され[9]、最後は中立倶楽部に所属して衆議院議員に連続2期在任した[5][6]。この間、最初の鉄道会議議員を務めた[1]。 晩年は「ごく普通の家庭の少年に実務の知識・技能を教え、公共に貢献できるように」[10]と私財を投じて[1]、村野徒弟学校(神戸村野工業高等学校を経て、現彩星工科高等学校)の設立に取り組んだ[1][2][4][7][8]。また、乃木神社(京都市伏見区)の創建に尽力した[1][2][3][4][5][7]。 1875年、台湾マラリア熱に感染し[2]、1920年(大正9年)末に再発して[2][4][11]、1921年1月、神戸須磨の自宅で死去した[11]。 国政選挙歴
脚注注釈
出典
参考文献
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