松平定静
伊予国・松山新田藩2代藩主、後に伊予松山藩8代藩主。定勝系久松松平家宗家9代。 生涯享保14年(1729年)閏9月23日、松山新田藩初代藩主・松平定章の長男として誕生。母は側室の放光院殿(松本氏の娘)。幼名は源之介。 延享4年(1747年)、父・定章の卒去によって遺領松山新田藩1万石を継ぐ。同年、従五位下・備中守に叙任。 明和2年(1765年)、従弟で宗家藩主の松平定功の急病によって継嗣となり、翌日宗家を継承する。新田藩1万石は松山藩に返還されることなく幕府に返上され、松山新田藩は消滅する。 同年、隠岐守に転任。長男熊太郎を嫡男とするも、明和3年(1766年)、4歳にて夭折。この年、従四位下に昇る。 明和5年(1768年)、幕命により田安宗武の六男豊丸を養子として迎え、定国と名付ける。明和7年(1770年)、後桃園天皇即位のため、御使に任ぜられ、侍従に叙任する。京都では後桃園天皇に拝謁する。一方でこの年には松山城下山手代町(現在の千舟町)の足軽屋敷から出火、城下の多くが焼け出される。翌年には、養祖父・松平定喬に続いて溜之間詰に任ぜられる。これらにより松山藩の財政は逼迫、定静はたびたび藩士の俸禄を削減し、倹約を求めている。この一環として享保の大飢饉に斃れた筒井村(現在の松前町)の作兵衛を「義農」として讃え、作兵衛のために碑を建てている。 安永7年(1778年)に儒学者である浅山勿斎に藩政改革を任せ、勿斎は文武の奨励、倹約の厳守、綱紀の粛正、民心の安定を図ろうとした。しかしながら安永8年(1779年)7月10日、俄かに発病し、同月14日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去した。享年51。定静の死によって松平定勝以来の男系の血筋は断絶した。勿斎は後を継いだ定国に側用人として起用され、引き続き改革を推し進めようとしたが、他の藩士たちの反対を招き、改革は挫折することになる。 遺骸が江戸三田済海寺に葬られる。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山大林寺へ送られ、法要が営まれた。 系譜 |