Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

 

松平定静

 
松平 定静
時代 江戸時代中期
生誕 享保14年閏9月23日1729年11月13日
死没 安永8年7月14日1779年8月25日
改名 源之介(幼名)、定静
戒名 岱嶽院殿従四位拾遺補闕故隠州徇誉観月光円大居士
官位 従五位下備中守隠岐守従四位下侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
伊予松山新田藩主、伊予松山藩
氏族 久松松平家定勝
父母 父:松平定章、母:放光院殿
養父:松平定功
兄弟 定静定紀水野忠寛正室、溝口直寛正室
正室織田信方の娘
常君、琴君、園君、八君
養子定国
テンプレートを表示

松平 定静(まつだいら さだきよ)は、江戸時代中期の大名

伊予国松山新田藩2代藩主、後に伊予松山藩8代藩主。定勝系久松松平家宗家9代。

生涯

享保14年(1729年)閏9月23日、松山新田藩初代藩主・松平定章の長男として誕生。母は側室の放光院殿(松本氏の娘)。幼名は源之介。

延享4年(1747年)、父・定章の卒去によって遺領松山新田藩1万石を継ぐ。同年、従五位下・備中守に叙任。

明和2年(1765年)、従弟で宗家藩主の松平定功の急病によって継嗣となり、翌日宗家を継承する。新田藩1万石は松山藩に返還されることなく幕府に返上され、松山新田藩は消滅する。

同年、隠岐守に転任。長男熊太郎を嫡男とするも、明和3年(1766年)、4歳にて夭折。この年、従四位下に昇る。

明和5年(1768年)、幕命により田安宗武の六男豊丸を養子として迎え、定国と名付ける。明和7年(1770年)、後桃園天皇即位のため、御使に任ぜられ、侍従に叙任する。京都では後桃園天皇に拝謁する。一方でこの年には松山城下山手代町(現在の千舟町)の足軽屋敷から出火、城下の多くが焼け出される。翌年には、養祖父・松平定喬に続いて溜之間詰に任ぜられる。これらにより松山藩の財政は逼迫、定静はたびたび藩士の俸禄を削減し、倹約を求めている。この一環として享保の大飢饉に斃れた筒井村(現在の松前町)の作兵衛を「義農」として讃え、作兵衛のために碑を建てている。

安永7年(1778年)に儒学者である浅山勿斎に藩政改革を任せ、勿斎は文武の奨励、倹約の厳守、綱紀の粛正、民心の安定を図ろうとした。しかしながら安永8年(1779年)7月10日、俄かに発病し、同月14日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去した。享年51。定静の死によって松平定勝以来の男系の血筋は断絶した。勿斎は後を継いだ定国に側用人として起用され、引き続き改革を推し進めようとしたが、他の藩士たちの反対を招き、改革は挫折することになる。

遺骸が江戸三田済海寺に葬られる。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山大林寺へ送られ、法要が営まれた。

系譜

  • 父:松平定章(1700-1747)
  • 母:放光院殿 - 松本氏
  • 養父:松平定功(1733-1765)
  • 正室:旭仙院 - 織田信方
  • 生母不明の子女
    • 長女:常君(1756-1802) - 松平定休正室
    • 長男:定保(1757-1762、早世)
    • 次女:琴君(1760-1807) - 松平信道正室
    • 次男:熊太郎(1763-1766、早世)
    • 三女:園君(1764-1802) - 太田資武正室
    • 四女:鐐君(1767-1768、早世)
    • 三男:伊勢松(1769-1769、早世)
    • 五女:多喜君(1773-1773、早世)
    • 六女:八君(1774-1792) - 秋元修朝正室
    • 四男:駒丸(1776-1777、早世)
    • 七女:雅君(1777-1789、早世)
  • 養子
Prefix: a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

Portal di Ensiklopedia Dunia

Kembali kehalaman sebelumnya