武 元爽(ぶ げんそう、? - 乾封元年(666年))は、中国の隋朝末期から唐朝初期にかけての政治家。父は武士彠。母は相里夫人。長兄に武元慶がおり、異母妹の武照は父の後妻の楊夫人の娘。子に武承嗣など。諡は徳。
略歴
若年時に父が没して後、名門武一族のなかでいち早く政治的に頭角を現したとされる。安州戸曹を経て、少府少監に昇った。兄である武元慶よりも将来を期待されて育ったと言われ、中でも父が寵愛した異母妹の武照の養育を一手に引き受けた。しかし、父の後妻として入った武照の実母の楊夫人に対しては好意的ではなかったとされ、特に父の死後は従兄弟である武懐亮(名は惟良)・武懐道・武懐運(名は弘度)と結び、一族で冷遇するよう仕向けたため、楊夫人の深い恨みを買うこととなり禍根を残した。
後年、武照が成長し太宗の後宮に入宮する際や、太宗に遠ざけられた後に李治(即位し高宗)に接近して影響力を強めていく過程においては、背後で政治力を発揮したといわれる。
武照が高宗の皇后となった後も影で暗躍し、高宗が武照の姪(長姉の娘)の魏国夫人を溺愛し、これが武照の逆鱗に触れたことに端を発した政争では、従兄弟の武懐亮らと武照を繋ぐ役割を担い、陰謀に加担した。高宗が泰山での封禅を終え長安に戻ったことを利用し、武懐亮は魏国夫人を密かに毒殺した。その後、武照は武懐亮および武懐運らに罪状を着せて、これを処刑している。更に両者の姓を「武」から「蝮」に改めさせるなど処罰は苛烈を極めた。一方で、既に早世していた武懐亮の妻の善夫人が、過去に武照の母の楊夫人に対して最も非礼であったという言いがかりをつけられた挙句、息絶えるまで鞭で打たれるという非情な刑罰を与えられている。
だが、やがて武元爽自身にも武照の手が及び、この政争に連座したという咎めを着せられ、振州へ配流となり、ほどなくして没する。異説では武照の手によって毒殺、あるいは処刑された、とも伝わる。諡は「徳」。
人物
武氏一族の繁栄をいち早く築いた功労者であり、後に皇后となり皇帝にも即位する武照の兄ということで存在感を示すなどしたが、結果的に武氏専横の流れを作った遠因となった。多くの陰謀に関わったことで権謀術数に長けた人物という評価がある一方で、冷遇した武照の生母の楊夫人から恨まれ、皇后となった娘に上疏されて濠州刺史に封じられるなどし、多くの政敵を作った。
ちなみに、子の武承嗣は、礼部尚書を経て太常卿同中書門下三品として宰相にまで昇り、権勢を極めた。また即位後の武周に仕え、690年に文昌左相となり、父の武元爽に対しての追尊「魏王」、諡「徳」とし、武氏の七廟を建立することを上奏、国史の編纂をするなどした。
- 網掛けは正史あるいは異説において、武則天によって処刑・賜死されたとされる人物。