歩大汗 薩(ほだいかん さつ、生没年不詳)は、中国の北魏末から北斉にかけての軍人。本貫は太安郡狄那県、あるいは代郡西部[3]。
経歴
北魏の龍驤将軍・領民別将の歩大汗居の子として生まれた。六鎮の乱が起こると、歩大汗薩は一家を率いて南方に避難し、秀容で爾朱栄に帰順した。建義元年(528年)、爾朱栄の入洛に従い、軍功により揚武軍帳内統軍に任ぜられ、江夏子の爵位を受けた。葛栄の乱の平定に参加し、功績を重ねて、鎮南将軍を加えられた。永安3年(530年)、爾朱栄の死後、爾朱兆の入洛に従い、帳内大都督に任ぜられた。中興2年(532年)、爾朱兆の下で韓陵の戦いに参加し、爾朱兆が敗れると、歩大汗薩は高歓に降った。第三領民酋長となり、秦州鎮城都督・北雍州刺史に累進した。天平元年(534年)、東魏が建国されると、歩大汗薩は東寿陽三泉都督に転じた。元象元年(538年)、行燕州となり、臨川領民大都督に転じ、長広伯の爵位を受けた。柔然への使者として立ち、帰還後に儀同三司となった。五城大都督として出向し、河陽に駐屯した。武定元年(543年)、高仲密が乱を起こし、宇文泰が洛陽の攻略を図ると、歩大汗薩は劉豊とともに河陽城を守ってこれに抗戦した。車騎大将軍・開府を加えられ、行唐県公に進封された。晋州刺史となり、安陵県男の別封を受け、驃騎大将軍を加えられた。天保元年(550年)、北斉が建国されると、歩大汗薩は義陽郡公に改封された。天保3年(552年)、合肥が包囲されると、歩大汗薩は暴顕や慕容儼らとともに梁の北徐州を攻撃し、その刺史の王強を捕らえた。天保4年(553年)、郭元建が合肥に派遣されて水軍を運用すると、歩大汗薩は邢杲遠や東方老らとともにこれに合流した。天保5年(554年)、涇州の救援に派遣された。
脚注
- ^ 『北斉書』歩大汗薩伝は「太安狄那人」とし、『北史』歩大汗薩伝は「代郡西部人」としている。
伝記資料
- 『北斉書』巻20 列伝第12
- 『北史』巻53 列伝第41
参考文献