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津軽貞升

 
津軽貞升
時代 江戸時代後期
生誕 寛政4年(1792年
死没 天保12年(1841年2月
別名 多膳、俊吉、廷尉
戒名 本浄院殿如空貞舛居士
墓所 東京都台東区寿常福寺
主君 津軽信順
陸奥弘前藩
氏族 津軽氏本姓藤原氏
父母 津軽貞栄
兄弟 永孚、男子、貞升
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津軽 貞升(つがる さだます)は、江戸時代後期の弘前藩士。

生涯

寛政11年(1799年)7月、父・津軽貞栄と兄・永孚の蟄居に伴い家督および知行800石を継いだ。後に江戸で700石を加増され、1500石となっている。文政天保と手廻組頭用人兼帯とし、藩政に功労があった。天明3年(1781年)、飢饉への対策を何もしない家老森岡元徳へ農民の救済もしくは家老の辞職を迫った。元徳がそれを拒むと、江戸の藩主・津軽信順に直訴するとなじり、脅した。しかし、用人大谷津七郎や元徳の妨害工作により、結局面会できず、直訴は失敗した。

天保3年(1832年)には久保田藩から救済米の引き出し交渉に成功するが、翌天保4年(1833年笠原皆充の讒言により、800石に減らされ蟄居させられた。天保10年(1839年)、藩政に復帰した。

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社
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