王 思廉(おう しれん、1238年 - 1320年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は仲常。真定路獲鹿県の出身。
概要
王思廉は幼いころより著名な文化人である元好問に師事し、長じると河東宣撫使に抜擢された張徳輝の掌書記を務めた。1273年(至元10年)に董文忠の推薦を受けてモンゴル朝廷に仕えるようになり、符宝局掌書の地位を授けられた。1276年(至元13年)には姚枢によって昭文舘待制とされ、ついで奉訓大夫・符宝局直長の地位に還った[1]。
1277年(至元14年)、王思廉が『資治通鑑』の講釈を行い、長孫皇后が唐の太宗を諌めた逸話を語ると、感心したクビライは内官や皇后を集めて同じ内容を説明するよう命じた。皇后らも王思廉の解説に感銘を受け、後には御史大夫ウズ・テムル・太師オチチェル・御史中丞サルバン・翰林学士承旨掇立察ら重臣もみな聴講を受けるようになったという[2]。
1281年(至元18年)には中順大夫・典瑞少監の地位に進んだが、翌1282年(至元19年)には尚書省の長であるアフマドが千戸の王著に暗殺されるという事件が起こった。この時、枢副密使の張易が暗殺に関わったかどうかが問題となり、報告を受けたクビライが人払いをして王思廉に張易のことについて尋ねたとの逸話が伝えられている[3][4]。
1283年(至元20年)には太監に昇格となり、このころ皇太子チンキムに学官を建てるよう進言している。1286年(至元23年)には嘉議大夫・同知大都留守・兼少府監事の地位に改められた。この年ナヤンの乱が勃発してクビライ自らが出陣する事態となったため、王思康は留守役の段貞に「このような事態となったのは藩王が広大な領地を有しているからであり、これを削減すべきであろう」と述べた。そこで段貞がこの意見をクビライに伝え、クビライは王思廉を嘉したという。1292年(至元29年)には正議大夫・枢密院判官の地位に遷った[5]。
クビライが死去しテムル(成宗オルジェイトゥ・カアン)が即位すると中奉大夫・翰林学士の地位を授けられたが、病を理由に家に帰っている。1299年(大徳3年)には工部尚書・征東行省参知政事、1303年(大徳7年)には大名路総管、1304年(大徳8年)には集賢学士、1307年(大徳11年)には正奉大夫・太子賓客を歴任した。1311年(至大4年)にアユルバルワダ(仁宗ブヤント・カアン)が即位した時には翰林学士承旨・資善大夫の地位を授けられたが職を辞し、1320年(延祐7年)に83歳にして亡くなった[6]。
脚注
- ^ 『元史』巻160列伝47王思廉伝,「王思廉字仲常、真定獲鹿人。幼師太原元好問、既冠、張徳耀宣撫河東、辟掌書記、復謝帰。至元十年、董文忠薦之、世祖問文忠曰『汝何由知王思廉賢』。対曰『鄉人之善者称之也』。遂召見、授符宝局掌書。十三年、姚枢挙為昭文舘待制、遷奉訓大夫・符宝局直長」
- ^ 『元史』巻160列伝47王思廉伝,「十四年、改翰林待制。嘗進読通鑑、至唐太宗有殺魏徵語、及長孫皇后進諫事、帝命内官引至皇后閤、講衍其説、后曰『是誠有益於宸衷。爾宜択善言進講、慎勿以瀆辞煩上聴也』。每侍読、帝命御史大夫玉速帖木児・太師月赤察児・御史中丞撒里蛮・翰林学士承旨掇立察等、咸聴受焉。帝嘗御延春閣、大賚群臣、俾十人為列以進、思廉偶在衛士之列、帝責董文忠曰『思廉儒臣、豈宜列衛士』」
- ^ 片山1983,31頁
- ^ 『元史』巻160列伝47王思廉伝,「十八年、進中順大夫・典瑞少監。十九年、帝幸白海。時千戸王著矯殺奸臣阿合馬於大都、辞連枢副密使張易。帝召思廉至行殿、屏左右、問曰『張易反、若知之乎』。対曰『未詳也』。帝曰『反已反已、何未詳也』。思廉徐奏曰『僭号改元謂之反、亡入他国謂之叛、群聚山林賊害民物謂之乱、張易之事、臣実不能詳也』。帝曰『朕自即位以来、如李璮之不臣、豈以我若漢高帝・趙太祖、遽陟帝位者乎』。思廉曰『陛下神聖天縦、前代之君不足比也』。帝歎曰『朕往者有問於竇默、其応如響、蓋心口不相違、故不思而得。朕今有問汝、能然乎。且張易所為、張仲謙知之否』。思廉即対曰『仲謙不知』。帝曰『何以明之』。対曰『二人不相安、臣故知其不知也』」
- ^ 『元史』巻160列伝47王思廉伝,「二十年、陞太監。思廉以儒素進、帝眷注優渥。嘗疾、賜御薬、顧問安否;扈蹕、失所乗馬、給内廄馬五匹;盜竊所賜玉帯、更以玉帯賜之。裕宗居東宮、思廉進曰『殿下府中、宜建学官、俾左右近侍、嘗親正学、必能裨輔明徳』。裕宗然之。裕宗嘗欲買甲第賜思廉、思廉固辞。二十三年、改嘉議大夫・同知大都留守、兼少府監事。藩王乃顔叛、帝親征、思廉間謂留守段貞曰『藩王反側、地大故也、漢鼂錯削地之策、実為良図、盍為上言之』。貞見帝、遂以聞、帝曰『汝何能出是言也』。貞以思廉対、帝嘉之。二十九年、遷正議大夫・枢密院判官」
- ^ 『元史』巻160列伝47王思廉伝,「大徳元年、成宗即位、遷中奉大夫・翰林学士、仍枢密院判官、以病帰。三年、起為工部尚書、拝征東行省参知政事。七年、総管大名路。八年、召為集賢学士。十一年、授正奉大夫・太子賓客。仁宗即位、以翰林学士承旨・資善大夫致仕。延祐七年卒、年八十三。贈翰林学士承旨・資徳大夫・河南江北等処行中書省右丞・上護軍、追封恒山郡公、諡文恭」
参考文献
- 『元史』巻160列伝47王思廉伝
- 『新元史』巻188列伝85王思廉伝
- 片山共夫「アーマッドの暗殺事件をめぐって:元朝フビライ期の政治史」『九州大学東洋史論集』11巻、1983年