第六十号駆潜艇[注釈 4](だいろくじゅうごうくせんてい)は、日本海軍の駆潜艇。普遍的には第28号型の32番艇、あるいは第60号型の1番艇とされているが、法令上は第13号型の47番艇[注釈 5]。基本計画番号K8Cの1番艇。太平洋戦争を生き延び、戦後は復員輸送に従事した。
艇歴
改⑤計画の駆潜艇、第5341号艦型の1番艇、仮称艦名第5341号艦として計画。1943年8月9日、新潟鐵工所新潟工場で起工。10月20日、第六十号駆潜艇と命名されて第十四号型駆潜艇の42番艇に定められ、本籍を横須賀鎮守府と仮定。
1944年1月10日、進水。2月24日、艤装員事務所が新潟鐵工所新潟工場内で事務を開始。3月15日、仮定本籍を佐世保鎮守府に改められる。3月28日竣工し、本籍を佐世保鎮守府に、役務を佐世保鎮守府警備駆潜艇にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、基礎術力練成教育に従事。
5月6日、第四南遣艦隊第二十六特別根拠地隊に編入。5月15日、軍隊区分第六警備部隊主隊に配置。29日、ヒ65船団(12隻)に同行し門司発。6月3日、同船団から離れてマニラへ向かい、7日マニラ着。14日、C134船団(陸軍船1隻、海軍船2隻)を護衛してセブ島へ向けマニラ発。18日、セブ島着。19日、P196船団(海軍船1隻)を第3号駆潜艇とともに護衛してダバオへ向けセブ島発。道中で特設駆潜艇白山丸が合流し、22日ダバオ着。
7月3日、掃五船団[注釈 6]を第5号掃海艇と護衛してハルマヘラ島カウ湾へ向けダバオ発。6日、他の船団を護衛してカウ湾に向かっていた帆風が北緯03度25分 東経125度30分 / 北緯3.417度 東経125.500度 / 3.417; 125.500の地点で被雷沈没したため、掃五船団をタフナ港へ退避させ、本艇は帆風に同行していた第22号掃海艇らと対潜制圧を行う。8日、カウ湾着。11日、5隻[注釈 7]を第5号掃海艇、第22号掃海艇と護衛してスラウェシ島ビートンへ向けカウ湾発。14日、ビートン着。16日、H31船団[注釈 8]を4隻[注釈 9]で護衛してブル島ナムレアへ向けビートン発。道中で第116号駆潜特務艇と特設駆潜艇第十七昭南丸が護衛に加わり、19日ナムレア着。20日、引き続きH31船団[注釈 10]を4隻[注釈 11]で護衛しアンボンへ向かう。24日、若鷹船団[注釈 12]を4隻[注釈 13]で護衛しビートンへ向けアンボン発。28日、ビートン着。本艇はアンボンへ引き返し、29日に第5号掃海艇とともにカウ湾へ向けアンボン発。以後、同方面で船団護衛に従事。
10月、第三南遣艦隊第三十一特別根拠地隊に編入。12月14日、船団護衛中にスービック湾南西で空襲を受け損傷。
1945年2月26日、第一護衛艦隊作戦指揮下に編入。
3月5日、泗礁山で在泊中に第三十一特別根拠地隊から除かれ第一護衛艦隊に編入。同日、ヒ88F船団の後を追う形で泗礁山を出発し、9日門司着。14日、モタ42船団(2隻)を護衛し門司発。途中、大長途山と大北列島を経由し、27日基隆着。基隆へ向け航行中の22日、鎮海警備府作戦指揮下に編入。30日、復航のタモ52船団(2隻)を護衛し基隆発。内地に帰還後は北九州、対馬海峡、黄海東部で船団護衛、対潜掃蕩、哨戒に従事。
終戦時は佐世保に所在。10月5日、復員輸送に使用するため除籍され、帝国艦船特別輸送艦と呼称。佐世保-南鮮-博多間の輸送を皮切りに復員輸送に従事。
1945年12月1日、第二復員省の開庁に伴い、佐世保地方復員局所管の特別輸送艦に定められる。12月20日、艦名を駆潜第六十号に改称。
1946年7月27日、特別保管艦に指定されたが特定の保管群には配置されずに、同じく保管群に配置されなかった蓮とともに佐世保で繋留された。10月1日、特別輸送艦の定めを解かれた。
1947年2月1日、行動不能艦艇に定められる。11月22日、在東京アメリカ極東海軍司令部から日本政府に対し、本艇の使用許可が出された。
1948年3月25日、山嶺鉄工所に引き渡され、解体された。
第六十号駆潜艇長/駆潜第六十号艦長
- 艤装員長
- 以倉菊次 大尉:1944年2月15日 - 1944年3月29日
- 駆潜艇長/艦長
- 以倉菊次 大尉/少佐:駆潜艇長 1944年3月29日 - 1945年1月25日
- 山口祐廣 大尉:1945年1月25日 - 1945年10月16日
- 青木滋 大尉/第二復員官/第二復員事務官:1945年10月16日 - 艦長 1945年12月20日 - 1946年5月10日
脚注
- 注釈
- ^ 法令上は第十三号型(第十四号型)。
- ^ 価格は第81回帝国議会で成立したもので、基本計画番号K8Cの価格ではない。
- ^ 竣工時は架台のみ設置し、送受波器は未装備。
- ^ 本来の艇名表記は第六十號驅潛艇(1945年12月20日以降は驅潛第六十號)。
- ^ 本艇が艦艇類別等級別表に登載された1943年10月20日時点で第13号駆潜艇、第25号駆潜艇、第27号駆潜艇の3隻が除籍済み、第56号駆潜艇と第57号駆潜艇の2隻が艦艇類別等級別表未登載のため、1943年10月20日時点で法令上は第十四号型の42番艇である。これら5隻を含めた場合、本艇は第十三号型の通算47番艇となる。
- ^ 海軍徴傭船建部丸、辰泰丸。
- ^ 陸軍船はんぶるぐ丸、眞盛丸、鳴尾丸、鎭海丸、くらいど丸。
- ^ 陸軍船せれべす丸、大安丸、台海丸、豊丸。
- ^ 第5号掃海艇、第22号掃海艇、第60号駆潜艇、第9号掃海特務艇。
- ^ ナムレアで大安丸が第22号掃海艇の護衛を受け抜けたため3隻。
- ^ 第5号掃海艇、第60号駆潜艇、特設駆潜艇第17昭南丸、第113号駆潜特務艇。
- ^ 陸軍船台海丸、豊丸、神靖丸。
- ^ 若鷹、第22号掃海艇、第60号駆潜艇、第3号掃海特務艇。
- 脚注
参考文献
- 海軍省
- 昭和15年11月15日付 内令第841号。
- 昭和18年10月20日付 達第253号、内令第2188号、内令第2197号、内令第2206号。
- 昭和19年3月15日付 内令第446号。
- 昭和19年3月28日付 内令第480号。
- 昭和20年10月1日付 軍務一第180号。
- 昭和20年10月12日付 軍務一第192号。
- 昭和19年3月8日付 海軍公報(部内限)第4635号。
- 昭和19年2月15日付 海軍辞令公報(部内限)第1325号。
- 昭和19年4月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1399号。
- 昭和20年1月30日付 秘海軍辞令公報 甲 第1707号。
- 昭和20年11月7日付 海軍辞令公報 甲 第1974号。
- 呉防備戦隊戦時日誌。
- 第一海上護衛隊戦時日誌。
- 第二十六特別根拠地隊戦時日誌。
- 第五艦隊(第二遊撃部隊)戦時日誌。
- 第一護衛艦隊戦時日誌。
- 第二復員省、復員庁
- 昭和20年12月1日付 内令第6号、内令第7号。
- 昭和20年12月20日付 内令第12号、官房人第19号。
- 昭和21年9月5日付 復二第230号。
- 昭和21年10月1日付 復二第295号。
- 昭和22年2月1日付 二復総第49号。
- 昭和20年12月20日付 第二復員省辞令公報 甲 第17号。
- 昭和20年5月20日付 第二復員省辞令公報 甲 第136号。
- 運輸省
- 昭和23年3月12日付 九州海運局管船部 九海局管第4号の41。
- 在東京アメリカ極東海軍司令部
- 1947年11月22日付 残存舊日本海軍行動不能艦艇(第二復員局保管)ニ關スル件。
- (a) 解撤スベキ艦船ノリスト。
- (b) 民需用トシテ内務省ヘ引渡スベキ艦艇ノリスト。
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』、出版共同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
- 坂本正器/福川秀樹 『日本海軍編制事典』、芙蓉書房出版、2003年。ISBN 4-8295-0330-0
- 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』、海人社、1996年。
- 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』、ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1
- 福井静夫 『昭和軍艦概史III 終戦と帝国艦艇 -わが海軍の終焉と艦艇の帰趨-』、出版共同社、1961年。
- 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第46巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(6) -第三段作戦後期-』、朝雲新聞社、1971年。
- 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第71巻 『大本営海軍部・聯合艦隊(5) -第三段作戦中期-』、朝雲新聞社、1974年。
- 防衛研修所戦史室 戦史叢書 第88巻 『海軍軍戦備(2) -開戦以後-』、朝雲新聞社、1975年。
- 丸スペシャル No. 49 日本海軍艦艇シリーズ 『駆潜艇・哨戒艇』、潮書房、1981年。
- 明治百年史叢書 第207巻 『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』、原書房、1977年。
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- a.1940年11月15日 特務艇の駆潜艇から艦艇の駆潜艇へ変更
- b.1940年11月15日 特務艇の駆潜艇から駆潜特務艇へ変更
- c.起工済未成艇
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