菅野惟肖
菅野 惟肖(すがの の これゆき/これすえ)は、平安時代前期の貴族・儒学者。姓は朝臣。官位は従五位下・文章博士。 出自菅野氏(菅野朝臣)は百済系渡来氏族。幾つかの系統があり、惟肖がどの系統に属するか明らかでないが、佐伯有清は貞観5年(863年)に御船宿禰から菅野朝臣に改姓した彦主・佐世らの近親と推察している[2]。 経歴菅原是善門下で紀伝道を学び[3]、文章生となる。文章生であった貞観14年(872年)に常陸少掾・多治守善と共に領帰渤海客使に任ぜられ、渤海使の帰国の際にその応接を務めている。貞観年間末に都良香を問答博士として対策に中上の成績で及第し、従七位上から従六位下に三階昇叙されたと想定される[4]。なおこの対策における判定と対文に対する評価が、都良香が著した『都氏文集』に残っている[5]。 対策及第後、元慶2年(878年)に少内記に任ぜられる[6]。同年の8月に貞保親王が飛香舎で『蒙求』を講読した後の宴会に、右大臣・藤原基経によって左少弁・巨勢文雄、文章博士・都良香、大外記・島田良臣ら高名な儒学者と共に招集されて漢詩を賦しており[7]、惟肖の才学に対する評価ぶりが窺われる[8]。また同年2月から元慶5年(882年)6月にかけて行われた日本紀講筵にもおそらく召人の資格で[9]参加している[10]。元慶6年(882年)に開催された日本紀竟宴では序者を務め[11]、日本紀竟宴和歌の題を選定している[12]。 元慶8年(884年)光孝天皇が即位し、藤原基経が摂政を止めて太政大臣のみを帯びることになったことを背景に、光孝天皇の詔により、太政大臣の職掌有無と唐における相当官職について、諸道の博士達に勘奏が命ぜられた[13]。ここで惟肖は以下の通り、職掌は唐の太師と同じで邦治を掌ること、唐の太師に相当する旨[14]の奏上を行っている[15]。
仁和2年(886年)勘解由次官兼播磨権大掾に転任し、翌仁和3年(887年)文章博士に任ぜられた。仁和4年(888年)春に菅原道真が省試を受験した文室時実に対して贈った漢詩に、同門の文章博士が没した旨の記載があることから、惟肖は文章博士に任ぜられて1年たたないうちに卒去したと想定される[16]。 人物同じく菅家廊下で学んだ菅原道真と親交があり、元慶7年(883年)ごろ匿詩事件で疑われ、鴻臚贈答詩を儒者たちから批判され苦しんでいた道真と漢詩の贈答を行って慰め、太政大臣・藤原基経を頼るよう助言しており[17]、両者の強い結び付きが窺われる[18]。また、菅原道真が惟肖の死を悼んで作成した漢詩作品が伝わっている[19]。 漢詩作品が『類聚句題抄』に残っている[20]。『扶桑集』にも採録されていたというが、現存の巻には存在していない。 官歴注記のないものは『日本三代実録』による。
脚注
参考文献 |