藤田直廣藤田 直廣(ふじた なおひろ、Naohiro Fujita、1948年4月2日 - )は、広島県出身の元レーシングドライバー。1970年代から1983年まで富士グランチャンピオンレースや全日本F2選手権に参戦、フォーミュラ・パシフィック、グループCなど多くのカテゴリーで活躍した。名車ポルシェ・956に最初に乗った日本人レーサーでもある[1]。1981年富士グランチャンピオンレースチャンピオン。 経歴1968年レースデビュー、富士フレッシュマン第9戦と第11戦でクラス優勝(トヨタ・1600GT)。1969年の日本グランプリ前座レースではトヨタ1600GTでクラス優勝する。以後トヨタのセミワークスドライバーとして活躍。富士グランチャンピオンレース併催のツーリングカークラスに参戦し、1971年、富士グラン300マイルレースにトヨタ・カローラクーペで参戦し優勝。1972年富士ビクトリー200キロレースでは、トヨタ・セリカ1600GTで優勝。このTSレースでは中野雅晴、鈴木恵一、佐藤文康、高橋晴邦、鈴木誠一、高橋健二らと競い、腕を磨く。 1974年、7月に開催された鈴鹿1000kmのクラス2にセリカ1600GTで佐藤文康と組んで参戦し、クラス優勝。富士GCシリーズ「マスターズ250kmレース」でシェブロン・B23 BMWを駆り3位入賞と好成績を続けたことにより、国内トップフォーミュラである全日本F2000 (全日本F2の前身)最終戦で国産初F2000マシンNOVA-02のドライバーを務める(練習走行でクラッシュし公式予選と決勝はDNS)。翌1975年はF2000へのフル参戦を開始する[2]。 1976年に鈴鹿サーキットで富士グランチャンピオンレースと同規格のビッグ・レースが企画され、藤田だけでなく他のトップレーサーたちも参戦予定だったが富士スピードウェイのオーガナイザー側が「鈴鹿に出場したレーサーは以後富士GCへ出場させない」と反発。このため藤田は参戦を止め[注釈 1]、鈴鹿に参戦する代役が必要となり、エンジンチューナーの松浦賢が前年FL500での走りを注目していた中嶋悟を推薦[注釈 2]。中嶋が初めて本格的な2000ccレーシングカーに乗るきっかけとなった。また、同年にはGCのレーシングカーに車両保険が掛けられるよう保険会社と交渉し、全GCカーに保険が掛けられたが[注釈 3]、この際保険会社側と交渉に当たったひとりが藤田であった[3]。 1978年、鈴鹿ダイヤモンド500kmレースでシェヴロン・B36 BMWを鮒子田寛とのコンビでドライブ、チームとしてポール・トゥ・フィニッシュで優勝を飾る[4]。 1981年、全日本F2第2戦鈴鹿でトップフォーミュラ参戦7年目にしてF2初優勝を挙げ、年間ランキング3位を獲得。同年は富士GCでもシリーズチャンピオンを獲得し、佐藤文康、小笹哲嗣とのチームで鈴鹿1000km優勝、11月のマカオグランプリにマーチ・トヨタ(フォーミュラ・パシフィック)で参戦し2位表彰台に立つなどキャリアハイの活躍をみせた[5]。 1983年シーズン、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権および富士ロングディスタンスシリーズでTRUSTポルシェ・956を駆り5戦中4勝を挙げ、全日本F2でも表彰台に立つなど衰えを見せていない中で「35歳でやめる」という自らのポリシーを貫き現役を引退[6]。 現役引退後は自らのチーム『ナウ モータースポーツ(NOW MOTOR SPORTS)』を主宰し、全日本F3選手権やフォーミュラ・トヨタに参戦し後進の育成に注力[7]、JAF(日本自動車連盟)主催の地元・広島や中国地域で開催されるジムカーナ大会の審査委員長などを歴任。1994年からTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で新たに開催されるようになったF1パシフィック・グランプリではグランプリ競技長としてレース運営を指揮した[8]。 2011年は全日本F3選手権に参戦するハナシマレーシングの監督を務めた[9]。 JAF中国地域クラブ協議会(JMRC中国)の運営委員長を2013年度まで務め[10]、2020年代以後も岡山国際サーキットの競技審査委員長や大会役員を務める[11]。 レース戦績FJ1300
全日本F2000選手権/全日本F2選手権
全日本フォーミュラ・パシフィック選手権
マカオグランプリ
全日本耐久選手権
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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