行者塚古墳
行者塚古墳(ぎょうじゃづかこふん)は、兵庫県加古川市山手にある古墳。形状は前方後円墳。西条古墳群(国の史跡)を構成する古墳の1つ。 概要兵庫県南部、印南野台地から北に延びる細長い段丘上に築造された大型前方後円墳である。「行者塚」の古墳名は、かつて後円部墳頂に行者堂が建っていたためと伝わる[1]。古くから調査が実施されているが、特に1995-1996年(平成7-8年)の本格的な発掘調査において副葬品・造出の様相が明らかとされている。 墳形は前方後円形で、前方部を南西方向に向ける。墳丘は3段築成[2]。墳丘長は99メートルを測り、加古川市内では最大、播磨地方でも有数の規模になる[3]。墳丘表面では竜山石を主とする葺石のほか、円筒埴輪列(朝顔形埴輪含む)が認められる。また造出が墳丘くびれ部の左右2ヶ所、後円部の2ヶ所の合計4ヶ所認められる。くびれ部西の造出では全面調査によって形象埴輪・土製模造品の配列が明らかとなっているほか、後円部北東の造出では粘土槨1基が検出されている。墳丘周囲には周濠・外堤が巡らされるほか、後円部側では外堤の外側に外周濠が巡らされる。埋葬施設は後円部中央における粘土槨3基で、いずれも未調査である。粘土槨のそばでは副葬品箱2基が検出されており、それらの中から金銅製透彫帯金具・轡・鋳造鉄斧・筒状青銅製品・鉄製武器・鉄製工具・鉄鋌・鉄床・鉄鍑・巴形銅器などの鉄製品・青銅製品が出土している。 築造時期は、古墳時代中期の4世紀末葉-5世紀初頭頃[3](または4世紀末葉頃[2]、5世紀前半頃[4])と推定される。畿内最古級の馬具の出土や朝鮮半島・中国との交流を示す副葬品の出土で注目されるともに、くびれ部西の造出の全面調査によって造出での古墳祭祀を明らかとするうえで重要視される古墳になる[2]。 古墳域は1973年(昭和48年)に国の史跡に指定された(史跡「西条古墳群」のうち)[5]。現在では史跡整備のうえで公開されている。 遺跡歴
墳丘墳丘の規模は次の通り[2]。
墳丘の1段目・2段目は高さ約1.6メートルを測るが、3段目は約6.1メートルと飛び抜けて高い構造になる[4]。 造出4ヶ所はいずれも長方形であるが規模は異なり、そのうちくびれ部西側の造出では全面的な発掘調査が実施されている。調査によれば、円筒埴輪を方形に並べて区画し、墳丘側では列を食い違いにして入口部とする。区画内側では家形埴輪が8個体以上が検出されたほか、小型土師器(壺・高坏・笊形土器など)と魚・鳥・アケビ状・ヒシの実・切り身状の食物土製模造品が検出されている。また造出と後円部墳丘との谷間には、円礫を敷いた上に囲形埴輪が置かれる[4][3]。 くびれ部東側の造出では、くびれ部西側の造出と同様に後円部墳丘との谷間に円礫を敷いた上に囲形埴輪が置かれ、囲形埴輪の中には家形埴輪が置かれる[2]。また後円部北東の造出では中央に粘土槨の埋葬が認められる[2]。 墳丘周囲の周濠は幅約14メートルを測り、その外側の外堤は幅5-6メートルを測る[4]。また後円部側では外堤の外側に外周濠が巡らされており、幅約8メートルを測る[4]。
埋葬施設埋葬施設としては、後円部墳頂の東西7メートル・南北10メートルの方形墓壙の中において、粘土槨3基が構築されている[2]。3基はいずれも主軸を墳丘主軸と平行方向とするが、いずれも未調査である[2]。中央粘土槨・西粘土槨の間と、西粘土槨の西側の2ヶ所では副葬品箱が検出されており、中央副葬品箱からは金銅製透彫帯金具・轡・鋳造鉄斧・筒状青銅製品などが、西副葬品箱からは鉄製武器・鉄製工具・鉄鋌・鉄床・鉄鍑・巴形銅器などが検出されている[2]。これらの副葬品は、朝鮮半島・中国との交流を示すものとして注目される[2]。 また前述のように、後円部北東の造出においても粘土槨1基が確認されている[2]。 出土品後円部墳頂で検出された中央副葬品箱・西副葬品箱の内容は次の通り[6]。
関連施設
脚注参考文献(記事執筆に使用した文献)
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