陽炎(かげろう/かげろふ)は、日本海軍の陽炎型駆逐艦1番艦である[3]。1939年(昭和14年)11月に竣工した。日本海軍の艦船名としては1899年(明治32年)竣工の東雲型駆逐艦陽炎に続いて2隻目。1943年(昭和18年)5月、ソロモン諸島ブラケット海峡で触雷し沈没した。
ネームシップであるにもかかわらず、現存する写真が非常に少ないとされる[4]。
艦歴
建造~第18駆逐隊時代
1934年(昭和9年)12月に日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告し2年後の失効が決まると、海軍は太平洋広域での活動を想定した大型駆逐艦の整備に着手した。1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(③計画)で、新型駆逐艦18隻の建造が承認された(同計画での建造は15隻)。陽炎は同型艦で3番目となる1937年(昭和12年)9月3日に舞鶴海軍工廠で起工[2]し、1938年(昭和13年)4月15日に命名され[5]、同日附で艦艇類別等級表に陽炎型駆逐艦が新設された[6]。
9月27日に進水[2][7]。1939年(昭和14年)8月10日、艤装員長山本岩多中佐が正式に初代駆逐艦長となった[8]。11月6日に同型艦で最も早く竣工した[2]。
陽炎は朝潮型駆逐艦2隻の第18駆逐隊(霞、霰)に編入し、11月15日に同駆逐隊が第二艦隊・第二水雷戦隊に編入した。12月20日、2番艦不知火が竣工し、第18駆逐隊は4隻体制となった[9]。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に18駆の僚艦と共に参加した[10]。
太平洋戦争の開戦が迫った1941年(昭和16年)、航続距離が長い陽炎型2隻を揃えた第18駆逐隊は、真珠湾攻撃に備えて第二水雷戦隊の指揮を離れて第一航空艦隊の警戒隊(第一水雷戦隊司令官大森仙太郎少将)に編入された[11]。警戒隊には他に第一水雷戦隊旗艦の軽巡阿武隈、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、駆逐艦秋雲(第五航空戦隊所属[12])が加わっていた。1941年(昭和16年)11月26日、機動部隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)の護衛として単冠湾を出発し、真珠湾攻撃に参加した。帰投後、開戦時の艦長だった横井稔中佐が脳溢血で倒れ[13]、12月22日附で有本輝美智中佐に交代した[14]。
1942年(昭和17年)1月5日に呉を出港し、第一航空艦隊に随行してラバウル攻撃に従事した。1月29日、浜風と共に翔鶴を護衛して横須賀に向かい、2月3日に到着した[15][16]。2月には第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)のポート・ダーウィン攻撃を護衛し、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦にも参加した。4月23日、呉に入港し入渠整備を行った[17]。
5月1日、第18駆逐隊は第二水雷戦隊の麾下に復帰した[18]。5月下旬、第二水雷戦隊はミッドウェー攻略作戦に参加するためサイパンに進出し、6月のミッドウェー海戦では攻略隊の護衛として参加した[19][20][21]。空母4隻を失って上陸作戦は中止となり、第18駆逐隊は6月8日、重巡三隈が沈没した第七戦隊(栗田健男少将)の指揮下に入った[22]。大破した重巡最上を護衛し、同戦隊の重巡熊野、重巡鈴谷と共にをトラック泊地に寄港した。6月23日、第18駆逐隊は熊野と鈴谷を護衛して呉に帰投した[23]。
第18駆逐隊は北方海域を担当する第五艦隊の指揮下に入った[24]。日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として占領に成功したアッツ島とキスカ島を維持する方針を決め、第18駆逐隊が呉に帰投した6月23日に輸送部隊(水上機母艦千代田、あるぜんちな丸、鹿野丸、菊川丸、第18駆逐隊)を編制した[25]。第18駆逐隊は千代田を護衛して横須賀に寄港し、あるぜんちな丸と合流した。28日、陽炎を除く3隻が一足先に千代田、あるぜんちな丸を護衛して横須賀を出撃した。残る輸送船の出発が遅れたため陽炎は対潜作戦を行い、他の部隊と共に米潜水艦ノーチラスを攻撃して損傷を与えた[23]。
7月5日、キスカ島に到着した不知火と霞、霰が米潜水艦グロウラーに攻撃され、霰が沈没、不知火と霞が大破した[26][27]。出港が遅れて難を逃れた陽炎は9日、輸送船菊川丸の護衛として横須賀を出発し[28]、19日にキスカ島へ到着した[29]。第18駆逐隊の健在艦が陽炎1隻となったため駆逐隊の編制が変更となり、陽炎は20日に南方に展開する第二水雷戦隊・第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)に編入された[30]。キスカ島に投錨していた陽炎は28日、駆逐艦雷が曳航する霞を護衛し、同島を出発した[31][32]。8月3日、3隻(陽炎、雷、霞)は幌筵島片岡湾に到着した[33]。陽炎は霞と分かれて横須賀に向かい、8日に到着した[34]。同日附で第二水雷戦隊の指揮下に復帰した[35]。
ガダルカナル島の戦い
1942年(昭和17年)8月7日、米軍はガダルカナル島とツラギ島に上陸し、ガダルカナル島の戦いが始まった。陽炎は、整備を終えた第二水雷戦隊旗艦の軽巡神通を護衛して15日にトラック泊地に入り、16日にソロモン海方面を担当する外南洋部隊(三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入った[36][37]。18日夜、陽炎は他の駆逐艦5隻(嵐、萩風、谷風、浦風、浜風)と共に陸軍一木支隊をガダルカナル島に揚陸させた[38]。第17駆逐隊の浦風、谷風、浜風がラバウルに戻り、19日昼にB-17の空襲で萩風が大破し、嵐が護衛してトラック泊地に避退したため、同島付近に残る駆逐艦は陽炎1隻となった。陽炎は米軍機の空襲を受けたがツラギ方面の偵察と対地砲撃を実施した。第二水雷戦隊から交代の駆逐艦江風が派遣され、陽炎は21日にショートランド泊地へ向かった[39]。
8月22日、外南洋部隊は陽炎、夕凪、江風、睦月、望月の駆逐艦5隻にガダルカナル島に対する米軍の補給・増援の阻止を、駆逐艦卯月には日本軍守備隊への補給を命じた[40]。陽炎は単艦で出撃し、23日深夜にガ島とツラギ島を砲撃するが、敵艦とは遭遇しなかった[41]。
24日午後10時、陽炎、睦月、弥生、江風、磯風の駆逐艦5隻でガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地を10分間砲撃し、陽炎は潜水艦1隻の撃沈を報告した。5隻は北上し、25日午前5時40分に陸軍一木支隊第二梯団を輸送する第二水雷戦隊(田中頼三少将)の旗艦神通、海風、涼風、哨戒艇4隻、輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流した。直後、急降下爆撃機SBDドーントレスとB-17の空襲を受け、睦月と金龍丸が沈没、神通が大破した[42][43]。陽炎は涼風と共に神通を護衛して輸送船団から離脱したが、田中少将は陽炎を旗艦として再び船団に戻り、神通を涼風に護衛させてトラックに退避させた[43][44]。輸送作戦は失敗し、26日夕、陽炎は燃料不足の海風を護衛してショートランド泊地へ向かった。28日朝、旗艦は重巡衣笠に移った[45]。
同日、ガダルカナル島に陸軍川口支隊の揚陸を目指していた天霧、朝霧、夕霧、白雲の駆逐艦4隻が空襲を受け、朝霧が沈没した。陽炎は救援のため出動し、29日昼に無傷の天霧と航行不能になった白雲、小破した夕霧と合流した。30日朝、陽炎は3隻を護衛しショートランド泊地に戻った[46][47]。31日以降、第三水雷戦隊(橋本信太郎少将)を中心とする増援部隊に加わり、鼠輸送作戦に従事した。
9月2日深夜、陽炎、駆逐艦夕暮、敷設艦津軽、哨戒艇1号・2号による輸送作戦が行われ、駆逐艦3隻(吹雪、白雪、天霧)が援護と飛行場砲撃を行った[48]。5日、駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島揚陸が実施された[49]。8日、ガ島に増援の米軍が上陸し、から米軍が川口支隊の背後に上陸したと報告が入った。第三水雷戦隊の旗艦軽巡川内と駆逐艦5隻(陽炎、吹雪、白雪、天霧、夕暮)が夜に到着したが、上陸船団は撤収しており、掃海艇1隻を座礁させたにとどまった[50][51]。13日にはヘンダーソン飛行場への日本陸軍総攻撃を支援するため出撃したが、攻撃が失敗し引き返した。
21日、大江覧治大佐の指揮で駆逐艦4隻(陽炎、浦波、白雪、浜風)が出撃、夜にガダルカナル島揚陸に成功するが、月明下で米軍機の夜間空襲を受けた。陽炎は機銃掃射をうけて艦首の水線上に穴が空き、浸水して揚錨機が使用不能になった[52][53][54]。この戦闘で、日本は月明下での鼠輸送を避けるようになった。22日、損傷した陽炎はいったん増援部隊から外されることになり、25日にトラック泊地に到着[53][55]。工作艦明石で修理した[56]。
10月11日、前線に復帰した[57]。13日に計画された大規模な飛行場砲撃作戦では前進部隊に編入し、駆逐艦電、磯波と共に第二航空戦隊の空母隼鷹、空母飛鷹を護衛した[58]。10月26日の南太平洋海戦に参加し、米艦隊を追撃した陽炎と駆逐艦巻波が27日、空母エンタープライズとホーネットの搭乗員各1名を捕虜にした[59][60]。
第三次ソロモン海戦
11月3日、第二水雷戦隊(田中頼三少将)が再び増援部隊の中心となった[61]。6日、駆逐艦11隻(陽炎、親潮、早潮、海風、江風、涼風、巻波、高波、長波、夕雲、風雲)がショートランド泊地を出撃しガダルカナル島に輸送し、作戦は成功した[62]。
11月、再びヘンダーソン飛行場への大規模な艦砲射撃と上陸作戦が計画され、第38師団(佐野忠義中将)を乗せた輸送船11隻を、第二水雷戦隊が指揮する駆逐艦11隻(陽炎、早潮、親潮、海風、江風、涼風、高波、長波、巻波、天霧、望月)が護衛し、11月12日にショートランドを出撃した。しかし13日の第三次ソロモン海戦第一夜戦と昼間の空襲で戦艦比叡、重巡衣笠、駆逐艦暁と夕立を失って砲撃が中止となり、船団はいったんショートランド泊地に戻った。14日に再出撃するがエンタープライズ艦載機やB-17重爆の攻撃で輸送船6隻が沈没、輸送船佐渡丸は天霧と望月の護衛で退避した。残る輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)を護衛し揚陸を目指したが、15日に同海戦第二夜戦に遭遇した。田中少将は陽炎と親潮に突撃を命じ、戦艦霧島と交戦中の米戦艦ワシントンに遭遇した。親潮は魚雷1本を発射したが外れ(命中と誤認)、陽炎は夜戦の混乱で敵味方が識別できず攻撃できなかった。輸送船は15日午前2時頃、ガダルカナル島に座礁させ揚陸をめざしたが、昼間の空襲で全隻炎上し、輸送作戦は完全に失敗した[63]。
- 陽炎は15日の第二夜戦の混乱の中で金剛型戦艦らしい艦影に識別信号を送った。さらに距離1000mで米戦艦(サウスダコタと推量される)が反航しすれ違ったが、攻撃できなかった。当時の高田俊夫・陽炎水雷長は「魚雷を発射しなくても大砲や機銃を撃てば良かったのかもしれないが、日本海軍は事前にそういう訓練はしてないので、撃つという発想がなかった」と回想している[64]。
連合軍は16日にパプアニューギニアのブナに上陸した。17日夜、駆逐艦5隻(夕雲、風雲、巻雲、陽炎、親潮)で陸兵1000名のブナ輸送に成功した。別の輸送作戦で海風が空襲で航行不能となり、19日に親潮と陽炎がラバウルから救援に向かった[65][66]。24日、第15駆逐隊の僚艦早潮が空襲で沈没し、同隊は3隻(親潮、黒潮、陽炎)になった。外南洋部隊は東部ニューギニアとガダルカナル島の二正面作戦を強いられることになり、第二水雷戦隊はガ島へのドラム缶輸送計画に参加することになった[67]。
11月29日夜、田中少将が指揮する第二水雷戦隊の駆逐艦8隻(長波、高波、親潮、黒潮、陽炎、巻波、江風 、涼風)が、第一次のドラム缶輸送のためガダルカナル島ルンガ沖に到着した。日本の輸送作戦を察知したカールトン・ライト少将率いる米艦隊は重巡3隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻で急襲し、ルンガ沖夜戦が勃発した。陽炎はこの時、輸送任務のため魚雷16本のうち予備魚雷8本を降ろしていた[68]。陽炎は攻撃命令を受けてドラム缶投下を中止、魚雷戦を準備した。しかし後続の巻波と行動中に僚艦を見失ったため、他艦より遅れて米艦隊を追撃し、巻波と共に魚雷を発射した。このうち2本が重巡ノーザンプトンに命中し、まもなく沈没した。日本は高波を失ったが、重巡ミネアポリス、 重巡ニューオーリンズ、重巡ペンサコラを大破させ、日本が海戦に勝利した。ただ輸送は失敗した[69][70]。
第二次輸送は嵐と野分が加わった駆逐艦9隻で実施され、12月3-4日にドラム缶1500個を投下したが、陸軍が回収したドラム缶は310個にとどまった[71][72]。7-8日、第三次輸送が駆逐艦11隻(親潮、黒潮、陽炎、長波、江風、涼風、嵐、野分、浦風、谷風、有明)で実施された。空襲で野分が航行不能となり、長波、嵐、有明と共に撤退した。残る駆逐艦はガ島付近で魚雷艇と夜間空襲を受け、揚陸を断念した[71]。11-12日の第四次輸送は野分を照月に交代して実行されたが、揚陸中に魚雷艇の襲撃で照月が沈没し、投下したドラム缶1200個中220個しか回収されなかった[73]。
16-17日には駆逐艦6隻(長波、巻波、親潮、黒潮、陽炎、谷風)でニュージョージア島ムンダに輸送を実施、揚陸中の夜間空襲で陽炎は重軽傷6名を出した。21日には駆逐艦4隻(浦風、谷風、巻波、陽炎)でムンダ輸送を実施した[74]。1943年(昭和18年)1月2-3日、駆逐艦10隻(長波、江風、涼風、巻波、荒潮、親潮、黒潮、陽炎、磯波、電)でガ島への輸送し成功した。この頃、第二水雷戦隊の各艦が激戦で故障を抱えたため艦の交代が行われ、陽炎と親潮、涼風、長波はトラック泊地に戻った[75]。
ガダルカナル島からの撤退が決まり、陽炎は2月上旬、敵艦隊の出現に備える本隊の支援隊として参加した(編制はケ号作戦参照)。2月8日までに撤退は成功し、トラック泊地の主力艦艇はいったん内地に帰投が決まった[76]。陽炎と黒潮は悪天候で航空隊の収容が遅れた隼鷹を護衛するため、主力艦艇に1日遅れて2月16日にトラックから内地に向かった。到着後、陽炎は入渠整備を行った[77][78]。
沈没
3月22日、陽炎と駆逐艦涼月、駆逐艦初月、夕暮は、隼鷹、飛鷹、重巡利根、重巡筑摩を護衛して本土を出撃し、28日にトラック泊地に到着した[79][80]。4月24日、トラックで合流した第十五駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は外南洋部隊に編入された[81]。4月26日、ラバウルに到着[82]。この頃ムンダやコロンバンガラ島の部隊が栄養不良などのために戦力が低下していたため部隊の補充交代が実施されることになり、この任務に第十五駆逐隊などが投入された[83]。4月29から5月8日までに6回のコロンバンガラ島輸送を実施することが計画され、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)は奇数回の輸送を担当した[84]。第1回(4月29日)、第3回(5月3日)の輸送は成功したが、毎回ブラケット水道を通過する同じ航路をとったため、日本軍の補給部隊がブラケット水道を通っていることを知ったアメリカ軍は5月6日に敷設駆逐艦「ブリーズ」、「プレブル」、「ガンブル」によりブラケット水道に機雷[85]を敷設した[86]。
5月7日17時(日本時間)、「親潮」、「黒潮」、「陽炎」はブインから5回目の輸送に出撃した[84]。「陽炎」は八連特の人員や軍需品などを搭載していた[84]。5月8日1時ごろにコロンバンガラ島ヴィラ泊地に入泊し、揚陸およに交代人員の収容を終えて3時10分頃に出港[87]。ブラケット水道を通過し、ファーガスン水道に向かおうとしていたとき、先頭の「親潮」が触雷した[88]。時刻は3時59分であった[88]。これを潜水艦の雷撃によるものと判断した「黒潮」と「陽炎」は爆雷を投射[88]。それから「陽炎」は「親潮」の周囲で潜水艦の捜索を行っていたところ、フェアウェイ島の37度約2000メートル付近で触雷した[89]。その時刻は4時11分頃[88]か4時6分[89]、または「親潮」触雷の11分後[90]であった。「陽炎」は第一缶室と第二缶室に浸水し航行不能となった[91]。この後さらに「黒潮」も触雷し爆沈した[88]。
沿岸監視員から日本駆逐艦が航行不能となって漂流中との報告を受けたマーク・ミッチャー少将はSBD19機、TBF3機、F4U32機、P-40を8機攻撃に向かわせた[92]。F4UとTBFは荒天のため引き返したが残りは攻撃を行い、「親潮」に爆弾1発が命中[93]。「陽炎」も至近弾や機銃掃射で負傷者を出し、火災も発生したがすぐに消火された[94]。「陽炎」は北西に流され[88]、浸水が進んで沈み始めたため18時ごろ艦長は総員離艦を下令[95]。18時17分、「陽炎」はフェアウェイ島の0度1200メートルで沈没した[95]。「陽炎」での人的被害は戦死者18名、重傷者11名、軽傷者25名であった[95]。「陽炎」の生存者はフェアウェイ島に上陸し、5月9日の日没後に救出に来た大発により救助された[96]。
6月20日、陽炎は帝国駆逐艦籍から除籍され、第15駆逐隊も解隊した[97][98]。
歴代艦長
- 艤装員長
- 山本岩多 中佐:1939年2月2日[99] - 1939年8月10日[8]
- 駆逐艦長
- 山本岩多 中佐:1939年8月10日[8] - 1939年11月1日[100]
- 天野重隆 中佐:1939年11月1日[100] - 1940年10月15日[101]
- 横井稔 中佐:1940年10月15日[101] - 1941年12月22日[14]
- 有本輝美智 中佐:1941年12月22日[14] - 1943年6月1日[102]
参考文献
- 木俣滋郎、『日本水雷戦史』、図書出版社、1986年
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年。ISBN 47698-2009-7。
- 綱渡りの航跡 <駆逐艦「秋月」艦長・緒方友兄大佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦霰艦長、軽巡木曾副長、駆逐艦秋月艦長等)
- 指揮官の決断 <駆逐艦「梨」艦長・高田敏夫少佐の証言>(太平洋戦争時、駆逐艦初雪水雷長、陽炎水雷長《沈没時》、軽巡能代水雷長、駆逐艦梨艦長等)
- 志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7。
- 当時「陽炎」水雷長・海軍大尉高田敏夫『十五駆「陽炎」コロンバンガラ触雷沈没記 仕掛けられた罠。親潮、黒潮、陽炎を襲ったブラケット水道の悲運』
- 戦史研究家大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり 太平洋戦争を第一線級駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情』
- 重本俊一(海軍兵学校70期)「第五章 憤死の海」『回天発進 わが出発は遂に訪れず』光人社、1989年4月。ISBN 4-7698-0436-9。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- 戦史研究家落合康夫『駆逐隊別「陽炎型駆逐艦」全作戦行動ダイアリィ 第四、第十五、第十六、第十七、第十八駆逐隊 太平洋奮迅録』
- 「丸」編集部『陽炎型駆逐艦の高性能を支えた七つの要点 無条約下にうまれた強力艦艇の対空、魚雷、電波兵装や機関の秘密』
- 当時第十八駆逐隊軍医長・海軍軍医大尉林靖『隠密ハワイ航路「陽炎」艦橋で見た機動部隊強し 真珠湾、インド洋、ミッドウェーを疾駆した陽炎の奮戦と不知火の損傷』
- 当時「親潮」航海士・海軍少尉重本俊一『わが「親潮」ルンガ沖に突入せよ 米艦隊の真っ只中に殴り込んだ親潮、黒潮、陽炎のルンガ沖夜戦』
- 当時「親潮」航海士・海軍少尉重本俊一『熱き海ソロモンに響く"三つの弔鐘"悲し 昭和十八年五月八日、クラ湾で触雷沈没した親潮、黒潮、陽炎の最期』
- 当時 四駆逐隊付・海軍少尉候補生戸田専一『乗艦「舞風」「萩風」ネズミ輸送の悲惨を語れ 駆逐艦の損傷相次ぎ風雲急を告げるソロモン戦線五ヶ月の体験』
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第四巻 昭和十七年一月一日~昭和十七年九月三十日』中央公論社、1996年7月。ISBN 4-12-403394-X。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月一日~昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403395-8。
- 編集員委員、元海軍大尉(ガ島戦時、陽炎航海長)市来俊男『極北の海から南溟の地へ』(付録5、第五巻、一九九六年十一月)
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日~九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6。
- 辻政信『THE PACIFIC WAR 太平洋戦記6 ガダルカナル』河出書房親社、1975年8月(原著1951年)。
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
- 当時「陽炎」信号員・海軍一等兵曹谷義保『十五駆逐隊「陽炎」ソロモン輸送航海記 黒潮、親潮、早潮の十五駆へ編入。最多ともいえる二十数回の決死行』
- 元大本営参謀・海軍中佐吉田俊雄『陽炎型駆逐艦十七&十八駆逐隊の航跡 谷風ミッドウェーの奮戦と浦風、不知火、磯風、浜風の最後』
- 橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社NF文庫、2014年8月(原著1984年)。ISBN 978-4-7698-2255-4。
- 半藤一利『航空戦史シリーズ41 ルンガ沖夜戦』朝日ソノラマ、1984年5月。ISBN 4-257-17041-7。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社、1971年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6。
- 戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
- 当時「巻波」機関長・海軍大尉前田憲夫『南太平洋に奇跡を起こした「巻波」奮迅録 最新鋭夕雲型駆逐艦の機関長が体験したガ島輸送とルンガ沖夜戦』
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- Ref.C12070178200『昭和18年5~6月 内令2巻/昭和18年6月(4)』。
- Ref.C12070178300『昭和18年5~6月 内令2巻/昭和18年6月(5)』。
- Ref.C13071997700『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。
- Ref.C13071998900『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(下)原稿:巻3追録/第16類艦船』。
- Ref.C12070070700『大正5年達完/5月』。
- Ref.C14120970200『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊潜水隊水雷隊掃海隊 海軍武功調査/18駆機密第17号の38 第18駆逐隊支那事変第8回功績概見表』。
- Ref.C14120979800『支那事変 第9回功績概見表綴/支那事変第9回功績概見表/9駆機密第17号の5 第18駆逐隊支那事変第9回功績概見表』。
- Ref.C14120988600『支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/18駆機密第4号の46 第18駆逐隊支那事変第10回功績概見表』。
- Ref.C08030079500『昭和17年1月1日~昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030315300『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030019100『昭和16年12月1日~昭和19年6月30日 第5艦隊戦時日誌AL作戦(2)』。
- Ref.C08030081500『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030081600『昭和17年5月29日~昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030094400『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030094500『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030094600『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030094900『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030095000『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030095100『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030095200『昭和17年5月1日~昭和17年8月7日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030040100『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。 表題は『あ号作戦』だが昭和17年6月二水戦日誌収録。
- Ref.C08030095600『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030095700『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030095800『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030095900『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030096000『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(5)』。
- Ref.C08030096100『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(6)』。
- Ref.C08030022500『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030022600『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030022700『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030022800『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030022900『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。
- Ref.C08030096400『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030096500『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030096600『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030096700『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030096800『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030096900『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(6)』。
- Ref.C08030097100『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030097200『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030097300『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030097400『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030097500『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030097600『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
- Ref.C08030097700『昭和17年9月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。
- Ref.C08030098100『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030098200『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030098300『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030098400『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030098500『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030098800『昭和17年11月1日~昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030098900『昭和17年11月1日~昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030099000『昭和17年11月1日~昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030099100『昭和17年11月1日~昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030099200『昭和17年11月1日~昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030099500『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030099600『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(2)』。
- Ref.C08030099700『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030099800『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030099900『昭和17年11月29日~昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(5)』。
- Ref.C08030116200『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。
- Ref.C08030116300『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。
- Ref.C08030116400『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。
- Ref.C08030116500『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。
- Ref.C08030041800『昭和17年9月11日~昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030048600『昭和17年1月12日~昭和19年1月1日 大東亜戦争戦闘詳報戦時日誌(5)』。
- Ref.C08030100200『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。
- Ref.C08030100300『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。
- Ref.C08030100400『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。
- Ref.C08030100500『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。
- Ref.C08030100600『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。
- Ref.C08030100700『昭和18年1月1日~昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。
- 田口利介『海軍作戦史 : 大東亜戦争第一年 info:ndljp/pid/1450057』西東社、1943年5月。
- 第二復員局残務処理部『ミッドウエイ作戦(自一九四二年四月至一九四二年六月) info:ndljp/pid/8815611』1947年6月。
脚注
関連項目